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無名の南画家 その1

2010年09月17日 01:08

無名の南画家 著者・加藤一雄 三彩社 (初出 雑誌『南画鑑賞』 1941年)

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内容は、主人公「私」が小学校の終わりから中学の初級にかけて交流のあった、一風変わった家庭教師を回想するというもの。
その家庭教師が“無名の南画家”というわけです。
著者も後記で語っていますが、「随筆とも小説ともつかぬヘンな」小品となっていて、主人公を始め登場人物は全くのフィクションだそうです。


あらすじ。


「私」はすべてのアカデミズムを心の底から軽蔑している祖母によってふたりの家庭教師をつけてもらう。
一人は法明院という寺の離れに住む「大木さん」という近所の理科の大学生。もう一人は大木さんから「ドンキホーテ」と呼ばれている菅靄山先生、つまりその人が貧しい無名の南画家だった。
靄山先生は石屋の横路次で妻も弟子もなく孤独の生活を続けていた。
生徒として弟子のように愛された「私」は靄山先生に漢文と習字を習いに行くが、いつも本題の授業には入らず、仏蘭西復興期の彫刻家ジャン・グージョンを讃め上げたり、子ども相手に芸術論をぶちまける始末。

靄山先生の生活の糧は、某区菓子商連合組合からくる菓子折の包装紙を画くこと。百数十軒の店が各々季節毎に変わった数種の意匠を求めにくる。
そして依頼のたびに、黄大癡のごとき高貴の筆を揮う先生だが、実は、先生の屈託のない頼みやすさと、潤筆料の安さから注文されているだけなのである。
そのようなわけで、先生の作品の殆ど全部は菓子折包装紙として、もうこの世から消えてしまっていた。

十一月の初め、真如堂のお十夜の頃、子どもの「私」から見ても「もうこの世で何もいらぬ」と思うほど美しい大木さんの妻・おさよさんが亡くなってしまう。二十三歳の若さだった。
後年、「私」が学校の先生からボードレールが「美」を歌って、泣きもせず、笑いもせぬもの、と習った時、
一抹投げやりで無関心の風のおさよさんが、法明院の庭先の青葉茂る樹に凭れて有り明けの月を見ている図を思い起こさせた。この時、おさよさんは既に死病を得て、若くして自分の体にも諦めをつけ切っていたのだった。

靄山先生のおさよさんへの追哭も悲痛なものだった。「儂はもう芸術の筆を折る」と言い出すほどに。
一方、妻を亡くした大木さんは猛烈な勢いで勉強を始める。靄山先生との夜の散歩の途次、百万遍に面した化学教室の窓を指して「大木君まだ居残っている」と先生は「私」に教えてくれた。
後年、猛烈な研究の末に、大木さんは無機化学界の泰斗・大木俊吉博士となる。

おさよさんの逝った暮れも過ぎ、春になった頃、靄山先生にとって畢生の大事が起こる。ある成金商人が先生に大作の揮毫を依頼したのだ。
それは南禅寺畔の別荘の座敷を飾る襖絵だった。
もちろん今回の理由も、潤筆料が他の絵描きに比べ問題にならなく安いという点にあった。
が、大木さんと「私」以外に先生を認める存在が現れたこと、それが本来なら先生が嫌うであろう人種の成金であったとしても、寂しい先生を夢中にさせるには充分。
ただ、大木さんが「私」とふたりきりの帰り道、黒谷の山内を歩きながら「靄山あの絵は決して描かんよ」とつぶやく。その言葉が妙に「私」も気にかかる。

先生が大作に筆を下ろす頃、「私」は病気になり、また中学の試験のために勉強もせねばならず、先生の元を遠のく。
そして大文字送り火の翌日、久しく御無沙汰していた先生の元を訪れた。「私」が進行状態をたずねると、先生は画箋紙の巻いたものを畳の上に広げた。
その下絵は、細密な筆で色も丁寧に差してあり、回想している二十年後の今も眼前に見るがごとく記憶するほど素晴らしいものだった。
下絵は四枚からなり、「高瀬川の春」「祇園の夕立」「お辰稲荷の秋」「因幡薬師の雪」と総てを合わせ「京の四季」とも称すべき作品。
声なき筆を揮って市井の喜びを描こうとした絵は、先生の仰ぐハイドンには及ばずとも、陋巷の裡を去来する花朝秋風の情を奏で、「私」は「僕はこの絵が好きです」と正直に批評する。
しかし先生は「そうかのう」と妙に気のない返事をしたきり・・・。

一週間後、「私」は先生に誘われて嵯峨の鯰屋へ夕食を食べに行く。その日、先生は旺んに京都風物の悪口をついていた。京都の風物はあまり柔らかで小型すぎる。男子にとって最も大事な抵抗力というものを感じさせない、と。
若い頃に行った磐城ノ国磐梯山の風景を引き合いに、「これこそ男子の景色、芸術家の揺籃なんじゃ。困難に衝当りはねかえされてまた衝進め。美とは困難の中からつかみとってくるものじゃ」と説く。
「私」は釈然としない。かねて主張するジャン・グージョンの優雅とは正反対。ハイドンの歓喜とも異なる。先生はその瞬間に頭に浮かんだことを主張し、先生の熱烈な「真理」は二三日の寿命に過ぎないのだ。
食事も大いに意気上がった頃、「この間君も褒めてくれた“京の四季”ナ、儂はあれを破り棄てた」と先生が自白した。

その後もいっこうに大作は進捗する様子もない。ある夜、「私」は大木さんと法明院の屋根の上で涼む。
現実生活上にはあれほど単純な靄山先生が、観念の上となると贅沢を欲し芸術理論をぶちまける姿に大木さんは愉快がる。
「僕と知合いになった頃は夫子は池大雅と伊太利音楽とに熱中して居った。見給え今度はボッチチェリと清元ぐらいを組合せるから、そしてまた壊して了うだろう。玩具を沢山持った子が、一体どれで遊んでよいか自分ながら分からなくなるのと同然さ」
「夫子は人間に大切な己惚れ心を持っていないんだね。見給え、その辺のお内儀さんはくさッぱちの児を生んで大いに自慢してるじゃないか。大政治家になるにも、大芸術家になるにも、別に複雑高級な精神機構は要らない。むしろその辺のお内儀さんと同一質度の真理を持ってなきゃならんのだ。唯それを大きく持てばいいのだ、靄山いい年をして何故この簡単な事実が分からんのか」

結局、大作は完成しないまま、先生と「私」が京極に寄席を見に行った折、なぜか先生はそこで聴いた河東節に感興し、鴨なんばんを食べ、銚子を倒し「儂は今夜題材を見付けたぞ。今の河東節でやった白楽天の琵琶行を描くんじゃ。楓葉荻花秋瑟々たる潯陽江を描いてやる」と興奮する。
興奮したまま、遠い夜道を歩いて帰ろうと先生は声高に琵琶行を歌い歩いて行く。先生はあまりにのぼせすぎて新烏丸通りの溝の中へ落ちてしまった。

その翌日から先生は病床につく。もともと肝臓が悪かった上に、溝へはまり悪い風邪をこじらせてしまったのだ。
看護人には先生の家主たる石屋の一人娘で不良少女の「おさん」。気難しい先生もおさんにしなされて、苦い薬を諾々として飲んでいる。
時雨の多い冬、先生は「私」やおさんに命じて本を読ませたりするが、おさんは読み違いなぞ気にかけずどんどん読んでいったりする。
「私」が最後に先生の教えを受けたのは師走も十日の晩。その夜、先生はおさんに坪内逍遙の「マクベス」を読ませていた。マクベス夫人が手に滲みた暗殺の血に悩まされる有名な第五章だった。
「今度もし儂が再び君のごとき少年と生まれ変って来たら、その時こそは  
おさんが、霙のごとき言葉を浴びせかけた。「先生何どすか、まだ性懲りものう先生は芸術家に生まれ変ってくる積もりでおいやすか」
すると無名の老作家は病苦にやつれた頬に莞爾たる微笑を浮べた。
「そうじゃ。七度人間に生まれてなあ」

年明け早々の朝早く、カラリと晴れ上がった冬の朝日の哀れな中を、おさんは髪も梳かずに駆けつけてきた。そして「私」に先生の訃を伝えた。
先生は真夜中におさんを起こし、「どうも体全体がうたていてならんのじゃ」と苦しげに呟く。
その夜は豪雨ということもあり、おさんが医者を呼ぶのを制し、「御苦労じゃが少しさすって下さらんか」と頼み、おさんが腕をさすっていると、痙攣し、ウゝゝゝと呻吟し、子供のような美しい眼を閉じていった。
不良少女は薄倖の老作家を抱いたまま、大雷雨の中をポトポトと涙を落としながら座っていた。




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無名の南画家 その2

2010年09月18日 23:27

『無名の南画家』は、雑誌『南画鑑賞』に1941(昭和16)年6月から翌2月までの5回にわたって掲載され、
1947(昭和22)年2月に日本美術出版社から単行本として出版されました。
その後、長らく絶版であったものが、1970(昭和45)年に三彩社から復刻されています。
とはいえ、朱い箱入りの三彩社版さえ、もちろん今では古本でしか手に入りません。


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〈主人公がたびたび山内を通り抜ける黒谷金戒光明寺。幕末には京都守護職が置かれ、城郭の佇まいも残る。堅牢な門〉


加藤一雄は1905(明治38)年、大阪市天王寺区生まれ。第四高等学校を経て、京都大学文学部哲学科を卒業します。
京都市立絵画専門学校(のちの京都市立芸術大学)教授をつとめたのち、関西学院大学教授など関西の私立大学で美術史を教えていました。
1980(昭和55)年、心不全のため右京区嵯峨の自宅で亡くなるまで、ずっと京都で過ごしたようです。
他の主な著作は、小説『蘆刈』(1976年、人文書院)、そして没後の1984年に刊行された『京都画壇周辺 加藤一雄著作集』(用美社)です。


芸術に魅せられ、振り回され、堕ちてゆく・・・、プライドは高いが憎めない靄山先生。その先生に気に入られた“ぼおっとした”子どもの「私」が京都の風物を絡めて美しく描き出し、
さらにおちゃっぴいで不良少女の「おさん」が先生との対比で、あたかも無垢な観世音菩薩のようにも思えます。
戦時中にこのような文章が書かれたというのがなんとも驚きです。
そして文章の巧さというのは、その人の息づかいや佇まいと同じようなもので、持って生まれた資質なんだなあ、とつくづく思ってしまう、そんな小説です。しかも読み返すほどその思いが強くなるのですから不思議ですね。
これほどの作品なら発表当初から話題にもなり、加藤一雄のもとへ小説の依頼も来たでしょうに、美術雑誌「三彩」に『蘆刈』(1972年4月号―1975年2月号まで28回掲載)を書くまで小説は発表しませんでした。

著者は三彩社版『無名の南画家』のあとがきで、
「実際なぜこんなものを書いたのか、書いた本人の私にさえも明瞭には合点がゆかない。ただ時期が日華事変真最中の暗鬱な時代であったから、われわれ小型のインテリたちは気が鬱していた。気鬱し、志屈した時は、ひょっとして、人はこんなものを書くものだという一つの例証にはなるかも知らない。私はこの事実は微かながら当時意識していた記憶がある。」
「主人公に南画家を持ってきたのは、取りも直さず、掲載誌に対するお愛想からである。もし相手が書道雑誌であったなら、私は恬然として『無名の書家』を書いたであろう。」
と、深い意味もなく書いたように謙遜していますが、本当のところはどうなのでしょうか?
同じく、あとがきで、
「このヘンな拙稿を書いて以来、私の周囲の世間(と言っても狭いものだが)、ともかくその世間は私をもって秋毫も学者として扱わなくなってしまった。広い世間から言えば取るに足らぬことながら、私としては少なからず家業に差支えが出てくるのである。しかしまあこれは自業自得で仕方がないものとして、唯一つ困ったことには、肝心の私自身が、何んらかの対象を前にして、これを学問的に取扱えなくなったことである。昔先生から教わったようにwissenschaftlichにやらねばならぬ、とは重々解っているのだが、いつの間にかその対象を随筆みたいに(もっと悪い時には)小説みたいに取扱っている」
と語っています。(wissenschaftlichはドイツ語で、学問的に、科学的に、という意味でしょうか・・・)

本業に差し支えが出たのか、たしかに小説は多く書きませんでしたが、800頁に及ぶ大著『京都画壇周辺 加藤一雄著作集』には、多くのエッセイがまとめられ、小説にも比する珠玉の文章(珠玉なんて言葉、恥ずかしくてあまり使いたくありませんが)を読むことができます。
専門の美術史に限らず、いやむしろ美術史に関心がなくとも、当時の京都の様子や風物が興味深く美しく描かれていて、加藤一雄の博識と洞察の視点は読んでいて心地よいです。


201009171103346a6[1] 〈『京都画壇周辺 加藤一雄著作集』(用美社)〉


『京都画壇周辺 加藤一雄著作集』の巻頭では富士正晴が「恍惚」という文章を書いています。これによると――

富士正晴が加藤一雄と知り合ったのは昭和16年頃。当時、富士正晴は弘文堂書房の編集者でした。
この頃、弘文堂書房では手頃の日本美術の写真集をつくることになって京大の美学の専門家のもとへしきりに通っていたといいます。
真如堂のそばにあった加藤家を一度訪ね、“はなはだ静かな好感を抱いて”満足して帰ります。訪問はこの一回きりでした。
ちょうど、『無名の南画家』が書かれ、発表される頃にあたります。しかし、その小説についての話が出ることはなかったそうです。
富士正晴が『無名の南画家』を初めて読んだのはもっと後になってから。
京都の古本屋で何気なく『南画鑑賞』をパラパラとやっているうちに読み、「こんなうまい小説はない」と、その全部を切り取って綴じて表紙をつけて何回も読んだ、とのこと。
その後、加藤一雄と富士正晴が再会したのは35年後に出版された小説『蘆刈』の出版記念会でした。
富士正晴は加藤一雄の印象を(もちろんその大半は生身の加藤一雄ではなく、文章を通じてでもあるのでしょうが)、
「なつかしい、冴えた、しかも温い(小説の中の人物の皮肉めいた扱いの裏にそれは濃厚にある)聡明きわまる、知識の自然な幅と深みのある人物であったことを今更感じないではおられない」と語っています。


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〈加藤一雄の住まいがあった真如堂門前〉


小説の舞台は左京区の吉田神楽岡、黒谷あたり。
大文字山の正面にあたるこの丘陵地帯は、周辺に真如堂、黒谷金戒光明寺、吉田神社、後一条帝や陽成帝の陵、そのほか小さな寺院が点在し、住宅も密集して趣のある地区となっています。
真如堂の門前に住んでいた著者がこの地を舞台にしたのは至極当然のことで、
戦争も末期、隣組防火班の監視哨をしていた加藤一雄は、空襲警報が鳴ると高台にある黒谷金戒光明寺の墓場へのぼって監視していました。そこからは亡びゆく大阪の火焔が「遠眼鏡でみる他人事みたいに、薄情な程はっきりと」見ることができたといいます。
そんな空襲のさなかに、竹内栖鳳の墓や海保青陵の墓を見付けたりするというようなことも『京都画壇周辺』には詳しく載っています。


20100918205146028[1] 〈神楽岡から眺める大文字〉


デビット・ゾペティの小説『いちげんさん』で目の不自由な女性・京子の家もこの神楽岡辺りの設定だったような・・・。
(映画『いちげんさん』(2000年)は、曰く付きの映画祭「京都映画祭」で京都市から1億円の助成が出され、第2回京都国際映画祭のオープニングで大々的に上映されたましたが、興行的にダダ滑りだったことは内緒です(笑)。その後、この映画祭自体も華麗にフェードアウトしたのでした・・・が、なんだか今年、10月6日から第7回京都国際映画祭をするみたいです。いったい盛り上がるのでしょうか)





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