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鴨川の三角州 その1

2011年04月22日 01:36

鴨川の三角州(もしくは鴨川デルタ)


DSC01325_R.jpg 〈鴨川の三角州全景〉

賀茂川(加茂川)と高野川が交わり、鴨川となるこの場所。

いつから「鴨川デルタ」「出町デルタ」などという無粋な呼び名が定着してしまったのでしょう・・・。

いや、確かに厳密にいえば、この場所の成り立ちは社会科で習う三角州の定義とはもちろん違うのですヨ。でも、そんな小難しいことは抜きに、昔の京都人は「出町の三角州」「鴨川の三角州」と呼んでいたものです。

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〈三角州の先端から、賀茂川、糺の森、高野川を眺める。京都の小中学生が課外授業の写生大会で、一度は画板を持たされ連れてこられるのが、この鴨川の「三角州」です。ガッコのセンセーから「かもがわの三角州に9時集合っ!」ってね〉

どうやら90年代終わり頃から、大学生を中心に「鴨川デルタ」の呼び名が定着したようですが、旧い人間にとってはどうも違和感大ありの呼び名で・・・いつまでたってもやはり「三角州」なのです。

たぶん学のある他府県から来た大学生からすると、三角州でもない場所を三角州と呼ぶことに抵抗があり、(デルタも三角州の意味ですが)三角形の意を当てはめてそう呼んだのでしょうが・・・京都でデルタといえば、自動車教習所しか思い浮かびませんっ。


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〈独断ですが・・・、京都を顔にたとえるなら、鴨川は鼻筋のようなもの。そして、鴨川が鼻筋なら、賀茂大橋のあるあたり、三角州の周辺は、眉間や目頭に相当し、もっとも顔を印象づける場所でもあるのです〉



さて、この場所には三つの橋が架かっていますが、今出川通りに架かる賀茂大橋(加茂大橋)は、鴨川に架かる橋の中でも最も長い橋なのです。

DSC01369_R.jpg 〈賀茂大橋〉

賀茂大橋は1931(昭和6)年に竣工し、上部の石造り灯籠付高欄と下部のゲルバー式鋼桁橋といわれる構造で出来ています。設計者は京都帝国大学工学部建築学科を創設した名建築家・武田五一。

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橋自体は目を引くデザインではありませんが、むしろまわりの景観を損ねないための、バランスと強度を重視した設計です。



そして、賀茂大橋の一つ上流、東の高野川に架かるのが、河合橋。こちらも武田五一の設計で1918(大正7)年の竣工です。

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賀茂大橋の桁高が緩やかなアーチを描いているのに対して、河合橋の桁高は一直線。どちらの橋も細かなブラケット(橋を支える突起部分)が特徴的。


さて、都に住む殿上人にとっても、この鴨川の氾濫は頭を悩ますタネでした。白河法皇が意のままにならぬものとして双六の賽、山法師(比叡山の僧)とともに鴨川の流れを「天下三不如意」に挙げたことでも有名ですね。

近代になっても、昭和10(1935)年6月29日に起こった京都大水害(鴨川大洪水)は、桂川や天神川など他河川での被害をも含むと、死傷者83名、家屋流出187棟、床上床下浸水43,289棟という甚大な被害をもたらしました。

そして鴨川に架かる橋のうちでも、三条大橋、五条大橋をはじめ26橋のうち22橋が流出しましたが・・・河合橋と賀茂大橋は流失しませんでした。

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〈三角州の先端、一段低い石堤となっている部分は一種の「導流堤(どうりゅうてい)」ですね。河川が交わる流路を安定させるために築いた緩衝地帯の役割を果たしているのです〉

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鴨川の三角州 その2

2011年04月22日 01:38

出町柳という地名は、鴨川右岸の河原町今出川付近の地名としてあった「出町」と、鴨川左岸(現在の叡山電車「出町柳駅」周辺)の地名であった「柳(柳の辻)」の二つの旧地名を合わせたものです。

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〈河合橋より叡山電鉄「出町柳駅」と大文字山を望む〉

かつて鴨川の三角州は今よりもっと距離が短く、出町橋と河合橋は一本の長い橋だったのだとか。京の町への洛北の入り口として江戸末期に架けられた木造で簡素な長い橋は(ちなみに、現在の賀茂大橋の場所には橋はありませんでした)、大正の初めに三角州が現在の形に整えられると、出町橋と河合橋という二つの橋になったのです。

ただし、河合橋は先に述べたように武田五一設計の頑強な橋であったものの、出町橋は木造のままで、1935(昭和10)年の鴨川大洪水で流され、再度の木造での建設を経て、1954(昭和29)年に現在のコンクリート造りの橋になりました。

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1951(昭和26)年公開の新藤兼人監督の『愛妻物語』にはコンクリート造りに立て替えられる前の、木造だった出町橋を見ることができます。

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〈『愛妻物語』監督・新藤兼人、1951年、大映〉



この出町界隈は、大正時代に大きく町並みを変えることとなります。

江戸の面影をまだ残していた大正初期、この界隈を走る今出川通りや河原町通りは、今のような幅広の道ではなく、ほんの裏通りの一つに過ぎませんでした。むしろ表通りは、寺町通りであったのです。

賀茂大橋よりDSC04457_R
〈河原町今出川の交差点〉

ところが、明治末には京都で市電の敷設がはじまりました。

1917(大正6)年には烏丸今出川―寺町今出川間の市電の開通により今出川通りが拡張され、1924(大正13)年には寺町今出川―河原町今出川間が開通。と同時に南北の通りも河原町今出川―河原町丸太町間が開業し、河原町通りが現在の幅に拡張されました。

1925(大正14)年には京都電燈が叡山線(現在の叡山電鉄)を開通させ、1931(昭和6)年に賀茂大橋が竣工。同年、市電も河原町今出川―百万遍間を開通させて、ようやく現在の町並みになったというわけです。

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〈賀茂大橋より大文字山を眺める〉



飛び石は渡って遊ぶためだけの理由であるのではなく・・・、

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川底にコンクリートブロックを敷き詰める護床工事の際に設置され、水の勢いを弱めるとともに、川底が削り取られるのを防いでもいるのです。

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四角形や亀の飛び石の他にも・・・千鳥の飛び石も。



アオサギ、コサギ、カモ・・・などは人影に逃げることもなく、水辺で戯れています。

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ここは昔から、ドラマや映画のロケ地として使用され、紹介するのもやや食傷気味なのですが・・・、

『愛妻物語』(監督・新藤兼人、1951年)
『曼陀羅』(監督・実相寺昭雄、1971年)
『お引越し』(監督・相米慎二、1993年)
『きょうのできごと』(監督・行定勲、2003年)
『パッチギ!』(監督・井筒和幸、2005年)

WS000113_R_20110420114454.jpg 〈『パッチギ!』より〉

『クローズド・ノート』(監督・行定勲、2007年)
『鴨川ホルモー』(監督・本木克英、2009年)

WS000003_R.jpg 〈『鴨川ホルモー』より〉

・・・などなど。
ただ、町並みの変遷を映し出しやすい場所がらから、現代劇でしか使えませんね。

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大文字 五山送り火 その1

2011年08月16日 23:28

大文字 五山送り火

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京都の夏の終わりを彩る「五山送り火」。
8月16日午後8時、如意ヶ嶽(大文字山)中腹の“大文字”に続き、東から西へと“妙法”(松ヶ崎)、“舟形”(西賀茂)、“左大文字”(衣笠大北山)、“鳥居形”(奥嵯峨)と五つの山に灯がともされます。

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〈鴨川の河原、特に三角州付近はすごい人です〉

お盆に帰ってきていた“お精霊さん(おしょらいさん)”をあの世へと送り届けるための神聖な一大行事で、「今川焼き」の感覚で「大文字焼き」と言うと、京都人の冷たい目線に晒されますので、ご注意を(苦笑)。

ただ、この「五山の送り火」、不思議なことにいつから始まったのかという起源が定かではないのです(あれだけ京都中から一望できる山なのに)。

江戸後期にかけて刊行されたお馴染み『都名所図会』(安永9(1780)年刊行)には次のように説明されています。

都名所図会「大文字の送り火」 - コピー
毎年七月十六日の夕暮、大文字の送り火は銀閣寺の後山如意が嶽にあり。昔此麓に浄土寺といふ天台の伽藍あり。本尊阿弥陀は一とせ回禄の時、此峯に飛去り光明を放ち給ふ。これを慕ふて本尊を元の地へ安置し、夫より盂蘭盆会に光明のかたちを作り、火をともしける。其後弘法大師大文字にあらため給ふ。星霜累りて文字の跡も圧しなば、東山殿相国寺の横川和尚に命ぜられ、元のごとく作らしめ給ふ。大の字初画の一点長さ九十二間ありといふ。冬の日雪の旦も此文字跡に雪つもりて洛陽の眺となる。これを雪の大文字とぞいひ侍る。
〈『都名所図会』(安永9(1780)年刊行)より 大文字の送り火〉
要約すると、昔、如意ヶ嶽山麓にあった浄土寺が炎上した時、本尊がこの山に飛び去って光明を放ちました。
その後、本尊を元の位置に戻しますが、光明を放った場所に盂蘭盆会の灯をともすようになります。
さらに、弘法大師空海がその灯の配列を“大”の文字に改めたのですが、時代を経るとともに、その文字の跡もなくなってしましました。
そして時は足利義政の時代、相国寺の僧・横川景三が義政の依頼によって元のように作り直した・・・と伝えています。

ちなみに、7月16日というのはもちろん旧暦のことで、「大」の文字は“人がた”をあらわし、火床が75あるのには、人のこころに潜む“七十五法”という煩悩を焼き尽くす意味があるのだとか。

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〈午後8時に灯る直前の大文字〉

そもそもの「大文字の送り火」の起源については諸説あり、平安時代、室町時代など、地元での言い伝えや関連寺院の寺伝では様々に伝えているようです。
「送り火」に関する最も古い記録は、万治元(1658)年に刊行された山本泰順著『洛陽名所集』や、寛文2(1662)年の中川喜雲著『案内者』という京都の案内記にあります。
そこで“妙法”“帆かけ船(舟形のこと)”“大文字”の三山が文献として初めて姿をあらわし、
『案内者』の中には、7月16日の夜に人々が鴨川の河原へ出て、麻幹(おがら)を松明として空に向かって放り投げ、その様子は、上は今出川口から下は三条河原にいたるまで百千の灯が、まるで瀬田の蛍火を見ているよう・・と描かれています。

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〈第一画は長さ80メートル(19床)、第二画は160メートル(29床)、第三画は120メートル(27床)。一つの火床には一束12キロの松割木五百束が井桁に組んであります〉

もともと精霊を送るために都に限らず古来の人々は、空に向かって灯を放り投げ霊を見送ったとされていて、死者への人々の想い、信仰心が、山の中腹に火を焚く行為に発展させ、さらに文字を描くようになった・・・とみるのが、「送り火」の始まりとしては正しいようです。

弘法大師の伝説や相国寺の僧・横川景三の逸話はさておき、実際、「送り火」は江戸初期から始まったというのが本当のところなのでしょう。

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〈「五山の送り火」で、点火にあたる人々は(“鳥居形”をのぞいて)、麓の寺の檀家の奉仕によって400年近く毎年行われてきました。しかし近年では檀家の世襲による奉仕だけでは人手不足のようで、ボランティアが多く参加しています〉

今では「五山の送り火」として定着していますが、
享保2(1717)年刊行の『諸国年中行事』には市原の“い”、鳴滝の“一”の字があったことが記され、江戸末期になると西山の“竹の先に鈴”、北嵯峨の“蛇”、嵯峨観空寺の“長刀”と五山の他にも数々の送り火の文字がありました。

DSC02506_R.jpg 〈出町橋より〉

そしていくつかあった送り火の山も、廃仏毀釈の影響で仏教行事が一時衰退したこともあり、その間に徐々に姿を消し、昭和初期には現在の「五山送り火」という呼称が定着するのです。

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〈送り火当日の鴨川三角州。北には妙法の「法」の文字〉



大文字 五山送り火 その2

2011年08月16日 23:29

花洛名勝図会「大文字送火」 - コピー
〈『花洛名勝図会』(元治元(1864)年刊行)より 大文字送火〉


大文字にちなむ言い伝えとして・・・、
丸い盆に水や酒を入れ、これに送り火を映して飲むと中風にかからないとか、
松割木(護摩木)に自分の名前と年齢を書き、山上の松割木とともに焚くと厄除けにきくとか、
焼かれた後の割木の灰を飲むと、一年が安息に暮らせる・・・などと言った俗信が今も残されています。

祇園祭と同じように、京都の町の人々の心意気で400年ちかくにわたりつづいてきた「送り火」も、近代に入り残念ながら幾度かの中止をみました。
最も影響が大きかったのは、明治初年から始まった廃仏毀釈運動です。京都府は明治5(1872)年に「盂蘭盆会ト称シ精霊祭等停止ノ事」を通達し、「送り火」を含む盂蘭盆会を禁止。明治16(1883)年に解かれるまで大文字が灯されることはありませんでした。

賀茂大橋よりDSC04458_R
〈賀茂大橋の西詰めより眺める普段の大文字山〉

また、戦時中の昭和18(1943)年から昭和20(1945)年までの三年間、資材人手不足や戦時中の灯火管制の理由から点灯が中止されていました。
ただし戦時中の大文字で忘れてはならないのが、「白い大文字」です。
これは昭和18年8月16日の早朝、京都市立第三錦林国民学校の児童や父兄、そして地元住民らが、白い服装で、大きな白いハンカチ、布を持って、大文字山に登り「大」の字に並んで白い文字を描き出したのです。戦意高揚と、戦没者の慰霊の気持ちを込めてのものでしたが、もちろん例年の盂蘭盆会としての伝統を繋いでおきたいという強い思いがあったのでしょう。いかに市民にとってこの恒例行事が大きい存在だったかがうかがわれる悲しい逸話です。そして翌年にも同じく白い大文字は京都の町に浮かび上がったのでした。

さらに昭和38(1963)年には大雨のため、大文字だけ点灯することが出来ず(他の四山は灯されました)、翌日に延期されるという珍しい事態も・・・。

賀茂大橋よりDSC04454_R 〈賀茂大橋より〉


そして、この大文字、たびたびイタズラの標的ともなってきました(苦笑)。

その中でも有名なのが、昭和47(1972)年10月30日の夜に、送り火の季節でもないのに灯った事件です。
学生運動も一段落したこの年、運動崩れの暇な京都市内の大学生が酔狂で、大文字の点灯を計画。70人あまりの学生(大文字の火床と同じくらいの人数)が参加し、夜の大文字山に登って、懐中電灯で「大」の文字を照らし出したのです。

また平成15(2003)年9月13日には、18年ぶりのリーグ優勝が間近に迫った阪神タイガースのマーク「HT」が「大」のかわりに灯もったのも記憶に新しいところです(といってもこの時は25名ほどの人数しか集まらず、うっすらとでしたが・・・)。

イタズラの中には、たびたび「大」を「犬」に変えようと、送り火当日、大文字山に忍び込む輩が絶えず、近年の厳しい入山規制へと繋がりました。

そして、イタズラをした人間は、保存会の人にこっぴどく怒られ、“宗教行事”であることを滔々と説かれるらしいのですが・・・、この「大文字」、宗教行事と称しているわりには、たびたびイベントでの点灯もなされてきたのです。

古くは明治23(1890)年4月8日、琵琶湖疏水竣工祝賀夜会で灯され、
明治24(1891)5月9日にはロシアの皇太子(大津事件で有名な後のニコライ2世)の入洛に際し、歓迎の意を表して点火し、
明治27(1894)5月15日には明治天皇の京都訪問に合わせ、日清戦争勝利祝賀のため点灯、
明治38(1905)年6月には日本海海戦での勝利を祝し、また同じ年の11月には海軍大将・東郷平八郎の凱旋に際して灯され、
昭和10(1935)年4月に満州国皇帝・愛新覚羅溥儀が京都を訪れた際には、大文字を灯して歓迎の意を表し、
近年では、平成12(2000)年12月31日に京都市の「21世紀幕開け記念事業」の一つとしてミレニアム記念という意味不明なこじつけで灯されたりして・・・(苦笑)。

出町橋よりDSC04461_R 〈出町橋より〉

もはや宗教性を超えて、イベント化、観光化とは切っても切り離せない「五山送り火」ですが、8月16日の晩にこの「送り火」を見ながら手を合わせて、亡き人を思っている人もいるのですから、悪ふざけをおもしろがるのも、ほどほどに・・・。





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