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三月の乾き その1

2011年01月10日 00:52

三月の乾き 著者・兵頭正俊 1985年

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全共闘時代を代表する“文学”として一番に思い出されるのは、20歳で鉄道自殺をした高野悦子さんの『二十歳(にじゅっさい)の原点』(1971年、新潮社)です。
そこには、彼女が20歳になった1969年1月2日から自殺2日前(6月22日)までの、立命館大学での学生生活やアルバイト先での恋、学生運動への葛藤が赤裸々に描かれています。1973年には映画化もされました(監督・大森健次郎、主演・角ゆり子)。

各大学で全共闘運動が盛り上がり、ベトナム反戦闘争、東大紛争、日大紛争の始まった1968年。東大は1969年度の入試の中止を決定します。そして、運動が沸点に達したのが1969年1月18、19日の東大安田講堂攻防戦。その後、1969年9月5日に全国全共闘が日比谷野外音楽堂で結成された頃には運動は急速に終焉へと向かっていました。

なんだか、高野悦子という女性を思う時、ベルリンの壁崩壊の一ヶ月前に東ベルリンから脱出を試み、射殺されてしまった市民を思ったりするのです。もう少し待てばよかったのに、と。


さて、兵頭正俊著『三月の乾き』(1985年、三一書房)は、そんな全共闘の時代を描いた小説の中の一つです。兵頭氏の経歴は、1944年、鹿児島生まれ。1968年、立命館大学文学部卒業。1971年、立命館大学大学院中退。
他の作品に、『死間山』(1977年、鋒刃社)、『二十歳』(1979年、鋒刃社)、『霙の降る情景』(1979年、三一書房)、『希望』(1981年、鋒刃社)、『ゴルゴダのことば狩り』(1984年、大和書房)、『怜悧の憐れみ』(2004年、三一書房)。どうやら、これら一連の著作はR大(立命館大学)の全共闘運動と運動に関わった学生の生活を描いたもので、吉本隆明の雑誌『試行』からデビューし、長年、教師として勤めていらっしゃったそうで、今もご健在のようです。

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〈1955年頃の立命館大学広小路学舎〉

どうしてこの本に興味を持ったのかというと、高野さんが自殺した1969年当時、兵頭氏は同じ立命館大学の大学院に籍を置き、運動に深く関わっていたという事実から、でした。




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三月の乾き その2

2011年01月10日 01:05

全共闘の時代、立命館大学は御所の東、広小路に校舎がありました(正確に言うと、新制の理工学部はずっと衣笠キャンパスにあって、1965年に経済学部・経営学部が、1970年に産業社会学部が、1978年に文学部と二部(夜間部)の全学部が、そして1981年に法学部が衣笠キャンパスに移り、全学部の移転が完了します)。

広小路通りは寺町通りと河原町通りの間、わずか100メートルほどの短い道です。
しかし、京都ではこの辺りが京都大学とならぶ運動の激しい衝突の舞台となり、“百万遍”といえば京都大学を指すように、“広小路”といえば、立命館大学を指す言葉として周知されていたようです。


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〈現在の広小路通り。左が京都府立医科大学附属図書館となっているかつての広小路学舎があった場所〉


どの大学もそうだったようですが(幸か不幸か、全共闘時代の知識にあまりに疎いもので、「ようです」や「だそうです」のような不確定語尾が続いちゃいます(泣))、大学の運営側と学生との衝突というよりも、大学の運営を巡る“日共系”と“反日共系”の学生との間で激しく繰り広げられた主導権争いだったのですね。

高野悦子さんも1年間同じ机で学んだクラスメイトから「君は代々木系か反代々木系か」と不信な敵意に満ちたまなざしで詰め寄られ、ショックを受けますが、“代々木系(日共系)”とは代々木(千駄ヶ谷)に党本部を置く日本共産党を指し、“反代々木系(反日共系)”とは、日本共産党の路線に反対する左派を指します。
ちなみに“民青”とは日本民主青年同盟の略で、実質上の日本共産党の青年組織です。また、反代々木系の中にも、いくつかのセクト(派閥)があって、運動が収束するにつれ、同じ反代々木系だった学生同士の内ゲバが目立つようになるのです。ややこしいですね。


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〈河原町広小路の交差点〉


当時の立命館大学は、理事会をはじめ、教授会、学友会、教職員組合から生協にいたるまで、日共系が占める「日共王国」と呼ばれていました。まあ、それはそれである意味、平穏だったそうです。

ところが、立命館で運動が激化する「新聞社事件」が1968年に起こったのです。
「日共王国」の立命館で、唯一、日共色に染まっていなかったのが学園新聞を発行する「立命館大学新聞社」。日共への批判的立場から週刊で発刊していたこの新聞社は日共にとって、もっとも目障りな存在でした。そんな新聞社に1968年12月12日、突然、民青所属の学生9名が入社申し込みにやってきたのです。
通常、学生新聞の新入社員は4、5月に1回生を対象として採用するのですが、この季節外れの入社希望の民青たちの中には3回生も含まれているという異様さでした。
「学園新聞の民主化」を唱える入社希望者たちの狙いはもちろん、新聞社の乗っ取りだったのです。すぐには採用の選考はできないと断る新聞社主幹に、その日の選考を迫る民青。押し問答の末、進入してきた黒ヘルメットの一団が窓硝子を割り、新聞社員が15時間にわたり監禁される事態に及びます。
この異常事態に接し、これまで日共の一元支配に辟易していた一般学生が立ち上がり、ヘルメットを被って、角材を手にするのです。完全武装の学生600名ほどが新聞社の入る校舎を取り囲むという全共闘時代を象徴するお馴染みの光景が、この時、初めて立命館大学で見られたのでした。


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〈今も残る、かつての「恒心館」。現在は宗教法人の施設「京都救世会館」〉


その後、この事件に対する大学当局の対応も曖昧で後手後手となり、翌1月16日には東大安田講堂の占拠につづき、立命館大学でも寮生が主体となって大学本部の中川会館を封鎖する事態となり(もちろん後には機動隊との衝突も起こりました)、さらに5月20日にはそれまで全共闘も一切攻撃の対象としていなかった民主主義の象徴「わだつみ像」が破壊される悲しい事件も起こってしまったのです・・・。




三月の乾き その3

2011年01月10日 01:15

まあ、そんな時代のことが、つらつらと描かれているのが兵頭正俊氏の『三月の乾き』なのです。(前述の新聞社事件は、どちらかというと反代々木系の立場からの説明になっちゃいました。というのも描かれている登場人物の立場が反代々木系だからです)。
立命館大学でも多くの退学者や教員の辞職が相次いだようですが、学校を辞めるだけなら、「あっ、そう」のひと言で済みますが、後遺症の残る怪我をしたり、失明をしたり、あるいは自殺した人たちにとっては・・・この運動って何だったんでしょうね。


さて、学生運動かぶれの予備校生が主人公だった、松原好之著『京都よ、わが情念のはるかな飛翔を支えよ』(1979年)が、あまりにおもしろくなかったせいで、全共闘運動の時代を描く『三月の乾き』も期待せずに読んだのですが・・・、
おもしろいとは言えないまでも、当時の空気感は充分感じられる作品でした。


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〈京都府立医科大学附属図書館の南東にひっそりと佇む「立命館学園発祥之地」の碑〉


もちろん、青臭い頭でっかちの学生が長々と吐き出す大袈裟なセリフや、全共闘時代に馴染みのない人間には大時代的に思える観念的なコトバの羅列がページを覆い(全共闘世代は人の話を聞かず、持論を最後まで展開しなければ気の済まない人たちばかりですから・・・(笑))、2、3ページを一気に飛ばして読みたくもなる退屈な場面もありますが、群像劇の形式をとり、飽きてきた頃には別の人物の視点に移っているので、そう、気詰まりという感じではありません。ただ小説としての描写には、もう少し力を入れて欲しかったでしょうか。

まあ、実際、立命館大学で全共闘の時代を知っている人たちが読めば、当時のことを思い出せるノスタルジー小説にはなっていると思います。


高野悦子さんがたびたび通った荒神口のジャズ喫茶「しあんくれーる」は、今はもうありませんが、『三月の乾き』に再三登場する三条河原町の喫茶店「六曜社」は今も営業しています。


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〈荒神口の交差点。写真、赤信号下のガレージとなっている角地がかつてジャズ喫茶「しあんくれーる」のあった場所〉

R大やD大、K大とあまり意味のない匿名を用いて描いているこの作品ですが、珍しく実名でたびたび登場する喫茶店「六曜社」。バリケードに出入りしている学生の溜まり場だったそうですが、著者にとっても、ひとしお思い入れの深い場所だったんでしょうね(ちなみに、高野悦子さんの『二十歳の原点』でも「ろくよう」として六曜社が、さらに数軒隣にあった「裏窓」という喫茶店などが登場しています)。

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〈三条河原町の喫茶店「六曜社」〉




二十歳の原点 その1

2011年01月15日 02:47

二十歳の原点 高野悦子 1971年

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『二十歳(にじゅっさい)の原点』は1971年に新潮社から出版された高野悦子さんの日記です。

そこには、彼女の20歳の誕生日である1969年1月2日(大学2年)から6月22日(大学3年)までの半年間に及ぶ日常がつづられています。
そして最後の記述から二日後、全共闘時代真っ只中の1969年6月24日未明、山陰本線の天神踏切付近で貨物列車に飛び込み20年の生涯を閉じます。彼女は当時、立命館大学の3回生でした。

彼女の死後である6月26日、遺品整理のため下宿先を訪れた家族が、十数冊の大学ノートに書かれた日記を発見します。彼女のいなくなった部屋で、父母は一晩かかって、娘の日記を読み通したのだとか・・・。
日記は父・高野三郎氏の手により、同人誌『那須文学』に掲載され、後に新潮社より『二十歳の原点』として出版されました。

その後、彼女の日記をさかのぼるように、1966年11月23日(高校3年)から1968年12月31日(大学2年)までをつづった『二十歳の原点序章』が1974年に、
1963年1月1日(中学2年)から1966年11月22日(高校3年)までをつづった『二十歳の原点ノート』が1976年に出版されます。
あわせて350万部のベストセラーとなりました。そして、その頃には既に全共闘運動は過去の出来事となっていたのです。


1949年に栃木で生まれた彼女は、修学旅行で訪れた京都に憧れ、「反骨精神、奈良本教授の立命館史学」に希望を抱き、立命館大学文学部史学科(日本史専攻)に入学します。
入学当初はまさか、全共闘運動の嵐が学園に吹き荒れるなんて思ってもみなかったことでしょう。

しかし、彼女が運動にのめり込む素養を持っていたことは、入学以前の日記からもうかがい知れます。
そもそも彼女は高校時代、奥浩平(1943年―1965年)の『青春の墓標』(1965年)を読み、“心の友”と呼ぶほど強い影響を受けていました。


奥浩平とは   

1960年の安保闘争に高校生ながら参加した学生運動家で、1963年の横浜市立大入学後は中核派として活動します。原子力潜水艦阻止闘争や日韓会談反対闘争に加わり、1965年2月、椎名外相訪韓阻止闘争で鼻を骨折し入院しますが、退院直後の3月6日に睡眠薬による服毒自殺でこの世を去りました。
自殺の動機は恋人との別れ、と言われています。早稲田大学の学生であった恋人は、革マル派に属していました。
中核派と革マル派は、日本共産党を批判して結成された新左翼「革命的共産主義者同盟」という組織に端を発してはいるものの、運動の方法や方向性の違いから、次第に袂を分かっていったのです(さらに1970年代に入ると、内ゲバなどの凄惨な暴力闘争へと激化します)。
彼と恋人も自分たちの所属する派閥の乖離と同時に、関係がギクシャクし、別れとなってしまうのです。
そして彼の書いた日記や、友人に綴った書簡を死後にまとめたものが、『青春の墓標』として出版されました。




二十歳の原点 その2

2011年01月15日 02:51

奥浩平氏と高野悦子さんは、奇しくも、学生運動にのめり込み自問自答する姿や、青春期の失恋など、同じような境遇を辿り、最後は自死を選んでしまうのです。そして、死後に親族により日記が刊行され、ベストセラーとなる点も同じで・・・。


しかし悲しいことには、この一連の『二十歳の原点』シリーズの刊行で、高野さんの親族には非難する声も寄せられ、ベストセラーになったが故のお金にまつわるいわれない誹謗中傷にもさらされたようです。


単行本『二十歳の原点』のあとがきで、高野三郎氏は次のように語っています。

「故人の手記を発表してほしいという話があったとき私は迷いました。手記が、発表されることを予期して書き綴られたものでないだけに、故人の恥部をさらけ出すことを恐れたのです。故人のプライバシーを尊重してソットしておくべきだとの御意見もありました。にもかかわらず、あえてそれを乗りこえさせたものは、編集者たっての懇請もさることながら、平凡な家庭に育ち平凡なコースを歩んだはずの一人の娘が、非凡な終末をとげるに至ったのは何故なのか、そして親として平凡なコースに戻らせるべくアドバイス(コントロール?)はできなかったものか。この辺の経緯と親と子の断絶、これらを汲取っていただいて他山の石としていただけたら、という次第なのです。」


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〈寺町通りと広小路の交差点〉


先に述べたように、彼女の心の友といえる書は『青春の墓標』で、リストカットまがいのカミソリで指先を切る自傷行為をしたり、太宰を好んで読んだり、そして自殺についての記述がたびたび見られたり・・・。

「私は誰かのために生きているわけではない。私自身のためにである。ホテルのソファに坐りながら、自殺しようと思った。車のヘッドライトに向かって飛びこめば、それでおわりである。家の父や母は悲しむかな、テレしようかなとか、今日はペンと手帳を持っていないから遺書はかけないなあとか、本気になって考えた。けれども、死ぬってことは結局負けだよなあと思った。」(4月18日の日記より)

彼女はずっとどこかで、自殺という人生の最期に憧れを抱いていたような気がします・・・。栃木に住む両親も彼女を心配し、自殺の一週間前には娘のやりたいようにやらせてあげよう、との言葉を伝えるために母親が京都を訪ねてきますが、結局、親の思いは届かず、その時京都で母親に買って貰った茶色のワンピースと靴を履いて、列車に飛び込んでしまいました。


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