恵美須神社(ゑびす神社) その1

2011年01月12日 01:00

「商売繁盛で笹もってこい」

関西では聞き慣れたこのフレーズも、その他の地域の人にとっては馴染みは薄いようです。
昔、あの独特のイントネーションで関東の人に歌って聞かせたところ、「そんな祭りがあるわけない」と信じてもらえず、一笑に付されました。
まあ、最近は西宮神社の福男選び(神社の境内を、われ先にと大勢の男性が駆ける、アレです(笑))が毎年のように全国ニュースで放送されるようになり、このフレーズも全国区となったようですが・・・。


さて、京都にも商売繁盛の神様を祀る恵美須神社(ゑびす神社)があります。神社のホームページには、「西宮・大阪今宮神社と並んで日本三大ゑびすと称され」とありますが、
西宮神社(兵庫県西宮市)や今宮戎神社(大阪市浪速区)、もしくは堀川戎神社(大阪市北区)に比べると少しマイナーな神社という印象です(境内の狭さも含めて・・・)。


京都ゑびす神社01546


しかし、松の内も終わった頃に、この神社で行われる1月10日の「十日ゑびす大祭(初ゑびす)」前後は、テキ屋の方々にとっても格好の稼ぎ時でもあるのか、四条通から恵美須神社(ゑびす神社)にかけての大和大路通り(400mあまりの距離)には露店が並び、終日すごい賑わいです。


京都ゑびす神社01539 〈大和大路通り〉


建仁寺の西にあるこの恵美須神社(ゑびす神社)の起源は、建仁2(1202)年に栄西が建仁寺を建立するにあたり、鎮守の社として建てられたものがはじまりだとか。栄西が宋より帰途についた際、しけにあった船が転覆しそうになるも、海上に現れた恵美須神の加護によって救われたとの言い伝えもあります。


二百年以上前の寛政11(1799)年に刊行された『都林泉名勝図会』にも「十日ゑびす」で賑わう当時の恵美須神社(ゑびす神社)の境内が描かれています。

ゑびす神社 『都林泉名所図会』
〈『都林泉名勝図会』建仁寺門前 十日笑姿祭〉 千金の価は安し春の宵 ぎをん柳

『都林泉名勝図会』は当ブログでも再三引用している『都名所図会』や『拾遺都名所図会』の姉妹版で、前者と同じく京都の俳諧師・秋里籬島が著した当時のガイドブックです。




恵美須神社(ゑびす神社) その2

2011年01月12日 01:08

京都ゑびす神社01572 〈本殿〉


昨年(2010年)11月17日付けの朝日新聞の企画特集「こころ 京に訪ねて」では恵美須神社(ゑびす神社)が特集され、その由来についても書かれていました。「十日ゑびす」の縁起物である「福笹の授受」を初めて行ったのは京都の恵美須神社で、およそ四百年前に18代目の宮司が考えたらしいです。それが各地のえびす神社に広まっていったのですね。さらに、明治に入ると、35代目の宮司が「初ゑびす」の翌日を「残り福祭」として始め、参拝者を呼び込むために新聞広告も出したのだとか・・・。
なんだかんだと、この神社が一番、商魂逞しい感じもしますが。


しかし、どうして商売繁盛を祈願する象徴が笹なのでしょう。
諸説あるようですが、笹は常緑樹で生命力が強く防腐作用があり、と古来より身近にある清浄な植物として重宝されてきました。さらに真っ直ぐに伸びる姿やしなやかで折れにくい特性が、商売人に必要な気質に似ているということもあり・・・、そしてなんと言っても恵比寿様の手にしているものは鯛に・・・笹竿ですものね。


京都ゑびす神社01548

右手に見える赤い傘は、境内の露店で売られている「人気大よせ(にんきおおよせ)」。京都の恵美須神社(ゑびす神社)でしか売られておらず、関東で言えば「熊手」に相当する縁起物です。お客さんがたくさん集まるように、との願いが込められています。大きさは熊手やダルマのように大小そろっています。


京都ゑびす神社01565

本殿にお参りした後は、本殿横(南側)にまわって、この板を叩いて再度お参りします。というのも、ゑびす様は長寿で耳が遠いため・・・だとか。しかし、これも京都の恵比寿神社だけの習わしで、狭い境内の中、多くの参拝者を効率よく誘導するために、この一風変わったお参りが行われるようになったようです。この神社、「福笹の授受」や「残り福祭」を初めて行ったことといい、なかなかの知恵者ですね。


京都ゑびす神社01550

吉兆の福笹は3000円。巫女さんが神楽を奉納する際に、祈祷してくれます。これに自分のほしい縁起物の福俵や鯛や熊手、大判小判などをつけてもらいます。縁起物は1000円から。まあ、今で言うトッピングです。花街近くにある神社だけあって、宮川町や祇園町の舞妓さんによる福笹授与もありますよ。

京都ゑびす神社01573


現在は1月8日に「招福祭」、9日が「宵ゑびす祭」(夜通し開門)、10日が「十日ゑびす大祭(初ゑびす)」(夜通し開門)、11日が「残り福祭」、12日が「撤福祭」と5日間にもわたって、商売繁盛、交通安全、家内安全を求める参拝者で賑わっています。



京の名所図会

2011年05月03日 01:47

『都名所図会』から『花洛名勝図会』まで


当ブログでもたびたび引用している『都名所図会』『拾遺都名所図会』ですが、江戸時代後期には当時の旅行ガイドブックたる各地の「名所図会」が多数出版され、好評を博します。

そのような時代にあって、挿絵付の本格的な「名所図会」の嚆矢となったのが、安永9(1780)年に出版された『都名所図会』でした。

『都名所図会』が出版されるまでにも断片的な「名所記」や町の由来を解説した「町鑑」の類は多数出ていたものの、まとまったカタチでの出版物はなかったようです。

『都名所図会』金閣寺_R_R
〈『都名所図会』より 金閣寺〉

『都名所図会』は京都寺町五条の書林・吉野屋の吉野屋為八が企画し、図版の出版に抗議が出ないようにと(当時から著作権は厳密だったのです)、それまで京都で出版されていた「名所記」の版木(出版権)をあまねく買い取るという用意周到の上で、作られ始めました。

京都の俳諧師・秋里籬島(あきさと・りとう)が文章を担当し、大阪の絵師・竹原春朝斎(たけはら・しゅんちょうさい)が挿画を施し、版木の彫刻も含め出版までには五年の歳月がかかったといわれています。


『都名所図会を読む』(宗政五十緒編、1997年、東京堂出版)によると、当初は思うように売れなかったそうですが、当時の大阪城代が江戸へ参向した時、親類縁者の土産として『都名所図会』を十数部持ち帰ったところ、評判となってその翌年から一年に四千部売れる大ベストセラーとなりました。

『都名所図会を読む』
〈『都名所図会を読む』(宗政五十緒編、1997年、東京堂出版) 現在、最も手軽に『都名所図会』に触れることのできる書物です〉

この『都名所図会』で大利を得た吉野屋為八は、さらに続編である『拾遺都名所図会』を天明7(1787)年に刊行。そして、京都にとどまらず『大和名所図会』『住吉名勝図会』『摂津名所図会』『和泉名所図会』『東海道名所図会』・・・と次々に各地の名所図会を出版していくのでした。


【都名所圖會(都名所図会)】安永9(1780)年

『都名所図会』清水寺_R_R
〈清水寺〉

名所図会の先がけとなった墨摺六冊本。本文は俳諧師・秋里籬島が著し、図版は絵師・竹原春朝斎が描き、京都の書林・吉野屋から安永9(1780)年に刊行されました。
京都の名所旧跡を、洛中、洛東、洛西、洛南、洛北の順に、文章と絵巻風の鳥瞰図・風俗図とによって紹介。主に神社・仏閣を取り上げています。この造本や版面・挿絵の様式が、後の名所図会に受け継がれることとなりました。好評のため版木が摩耗し、天明6(1786)年に再版されています。


【拾遺都名所圖會(拾遺名所図会)】天明7(1787)年

『拾遺都名所図会』二軒茶屋_R_R
〈二軒茶屋〉

『都名所図会』の後編として天明7(1787)年に刊行された墨摺五冊本で、本文と図版は前回と同じく秋里籬島と竹原春朝斎が担当。
その名の通り、『都名所図会』で漏れた名所を拾い集めているため、町や小路にある小祠や小寺院も収録されていますが、これらの多くは文章の解説にとどめ、代わりに大社の祭礼や四季の年中行事の様子を多く取り上げ、当時の人々の風俗をより知ることが出来ます。


【都林泉名勝圖會(都林泉名勝図会)】寛政11(1799)年

『都林泉名勝図会』伏見稲荷社 初午_R_R
〈伏見稲荷社 初午〉

寛政11(1799)年に刊行された墨摺五冊本で、『都名所図会』と同じく本文は秋里籬島が著し、挿絵は佐久間草偃、西村中和、奥文鳴の三名が競って描いています。京都の名所、その中でも特に庭園を中心に描かれているのが特徴です。


【花洛名勝圖會(花洛名勝図会)】元治元(1864)年

『再撰花洛名勝図会』大文字送り火_R_R
〈大文字送り火〉

元治元(1864)年に刊行された墨摺八冊本で、原案は平塚瓢斎が担当し、木村明啓と川喜多真彦の二名が執筆。挿絵は松川安信、四方義休、楳川重寛ら複数名が描いているようです。当初は洛中を初め、東、北、西の山々を部として六編が予定されていましたが、実際に出版されたのは第二編の「東山之部」のみ。



智積院 その2

2011年08月08日 00:41

さて、たびたびの火災に遭い伽藍も比較的新しい智積院にあって、誇るべき見どころといえば・・・そう、長谷川等伯の障壁画と、名勝庭園です(拝観に大人500円がかかってしまいますが)。


桃山時代に豊臣秀吉の命によって長谷川等伯一派が描いた金碧障壁画は、当代一の大寺院であった祥雲禅寺の客殿を飾っていました。そして、度重なる火災の際にも、僧侶たちがその障壁画を真っ先に担いで逃げ延び、現在に伝わってきたのです。しかし・・・、

DSC03262_R.jpg 〈収蔵庫の入り口〉

収蔵庫のちゃっちいこと、といったら(苦笑)。しかも入り口の横にはモップが置きっぱなしで・・・。
さらに「楓図」「桜図」「松と葵の図」「松に秋草図」等の国宝の障壁画は、豪華絢爛とは程遠い色褪せようで・・・ガッカリです。


一方、“利休好みの庭”として知られる名勝庭園は確かに、いいです。

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この庭園は祥雲禅寺時代に原型が造られていたものを、第七世・運敞(うんしょう)僧正が修復し、東山随一の庭として『都林泉名勝図会』(寛政11(1799)年刊行)にも紹介されています。

都林泉名勝図会「智積院」 - コピー
智積院〔養源院の東にあり、真言新儀派、開基正憲法印。此地初めは豊太閤御子棄君菩提の為に創建ありて、祥雲禅寺と号す。厥后故障ありて妙心寺玉鳳院に移す、事は四巻妙心寺の部に見えたり。将軍家より覚鑁派断絶を惜み、初瀬に小池坊を創し、当院をこゝに建る〕
原当院は法住寺殿の古蹟、北は滑谷妙法院を限り、南は新態野瓦阪を限る。林泉は東に翠巒層々として深林の中に宝閣寂々たり。客殿書院倶に百花の図長谷川等伯の筆、玄関松に鶴の画も同筆なり、みな惣金極彩色なり、艸木の絵の屏風一双も極彩色にしてこれも等伯の筆なり、生涯の奇筆にして世に比類なし。
〈『都林泉名勝図会』寛政11(1799)年刊行より 智積院〉

なんでも、「正面右側より奥は祥雲禅寺時代のもので桃山時代の特色ある刈込みを主体」とし、「中央の築山は阿弥陀ヶ峰の山麓を利して造られたもので、江戸好みの感じをだしてい」るのだとか。

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説明書きには「庭には歩く庭、立見の庭、座っての庭とありますが、この庭は座って見る庭で名勝庭園の中でも傑作の一つに数えられます」とありましたが、書院の中程から座って見る景色は確かに色鮮やかでありつつも幽玄そのもの、といった感じ。ただし、団体観光客と鉢合わせると・・・そんな風情はあったものではないのかも。

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〈国宝の障壁画がかつて飾られていたのは、ここにあった大書院。庭園に面して建ち、平安期の寝殿造りの釣殿のように、庭園の池が書院の縁の下に入り込んでいます〉


さて、智積院の寺紋は「桔梗」ですが、これは秀吉の家臣であった加藤清正の家紋にちなんでいます。

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智積院に下げ渡された祥雲禅寺は築城の名手・清正によって建てられたもので、あまりの伽藍のすばらしさに敬意を表し、そのまま加藤家の紋が使われているのだとか。


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〈大書院の玄関から連なるのが七条通り〉