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北白川の石仏

2010年09月06日 00:22

百万遍を東へ。京都大学も通り過ぎ、さらに東へ向かいます。すると北東に向かって斜めにのびる街道があります。
この街道を志賀越道(しがごえみち)といい、京から近江へつづく重要な内陸交通路として江戸時代まではたいそう栄えていました。

今出川と志賀越道の交差点は、旧吉田村と旧白川村との村境で、白川口と呼ばれていました。
もしこの街道の交差点が思い浮かばなくても、街道の入り口に立つ高さ2メートルほどの大きな石仏を知らない京都人は少ないでしょう。
ただ、いつも気になりながらも、祠に鎮座するこの石仏のいわれは?と聞かれると・・・ほとんどの人は知らないんですよね。

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さて、この大きな石仏は、お地蔵さんではなく、「子安観世音」といいます。
鎌倉中期につくられたこの石仏は、子授けや、子どもの成長を見守る観音として昔から地元民の信仰を集めていました。
花の振り売りで有名な白川女も町へ出る際、この観音に花を供え、道中の安全と商売繁盛を祈願したのだとか。

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〈御詠歌は「みちばたの川にはさまれ東むき あさひをうける子安観音」〉

傍らの説明書きには、
「ここは昔から白川の村の入り口に当り、東は山を越えて近江に向い、洛中へは斜めに荒神口に通じていた。また出町から百万遍をへて浄土寺へと向う細道との交差点でもあった。
この堂々たる鎌倉期の石仏は『拾遺都名所図会』に希代の大像として描かれている弥陀像であるが長い年月の間にかなりの風化が見られる。古来子安観世音として町の人々の信仰があつく今も白川女は必ずここに花を供えて商いに出る。」
とありました。

北白川石仏_20100905164348 北白川石仏_20100905164240
〈天明7(1789)年刊行の『拾遺都名所図会』より 北白川の石仏〉


この石仏にはおもしろい言い伝えがあります。
当地を通りかかった豊臣秀吉が石仏をたいそう気に入り、当時、謳歌を極めていた聚楽第へと持ち帰ります。
すると、夜な夜な、持ち帰った石仏のもとから地響きのような不吉な音が聞こえるようになります。どうやら「もとの白川に戻せ、帰りたい、帰りたい」と石仏がうなりをあげる声だったのです。
そして、その悲痛な声に辟易した秀吉が石仏を元に戻さざるを得なくなり、いつごろからか、太閤をも打ち負かした地蔵として「太閤地蔵」とも呼ばれるようになったのだとか。
また、文政13(1830)年の白川村の大火により、それまで村の中ほどにあった石仏が現在の場所に移されるのですが、その際、両手と首がちぎれてしまい「首切れ地蔵」とも呼ばれるようになります。
さらに近年でも、1996年にトラックが石仏に突っ込む事故があり、胴体と頭部が丸太で繋いであっただけのもろい頭部が転げ落ち、今も顔には補修した痛々しい白い傷跡が残っています。


さて、これだけ立派な石仏がつくられたのには、この土地ならではの特産品である花崗岩・白川石の存在が大きかったようです。
白川石は鎌倉時代、三大名石のひとつにも数えられ、このあたりに住む多くの人々が石工(いしきり)を生業とし、庭石や白川灯籠、手水鉢が名産となります。
また、白川石が風化して白くなった砂は、白川砂として寺社の庭園の砂として重宝がられました。
残念ながら大正期には材料となる花崗岩の枯渇もあって、石を用いた産業も衰退してしましましたが、今でも北白川通りにかけて石屋さんが多いのは、往時からの名残なのでしょう。

北白川石仏_20100905164157 北白川石仏_20100905164059
〈安永9(1780)年刊行の『都名所図会』より 石工の作業のようす〉


この石仏を少し遠くからながめていましたら、近くにお住まいの方なのか、70代くらいの帽子をかぶった老紳士が街道の坂の上から歩いてきました。
なにげに見ているとその老紳士は、かぶっていたパナマ帽子を石仏の前を通る際に脱ぎ、通り過ぎるとひょいとかぶりなおして歩き去りました。
今の時代に町角の信仰がまだ根づいている光景を見ることができ、妙に嬉しくなったものです。


なお、子安観音から南西に下がった位置にも立派な石仏が鎮座しています(今出川通りから隠れるように覆屋が建っていますので、わかりにくいですが・・・)。

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高さ1メートルあまりの2体の石仏で、碑には大日如来と書かれていますが、阿弥陀如来像らしいです。
今では2体仲良くならんでいる石仏ですが、右側の石仏は昭和になって近くから掘り起こされたものをここに一緒に祀ったのだとか。
目鼻立ちもなくなってしまうほどに古い左の阿弥陀像は平安後期の作ともいわれており、元々は子安観音と対面して安置されていたものが、市電開通に伴う今出川通の拡張に伴って、現在の場所に移されたともいいます。
今では北白川の石仏といえば、この3体の総称として通っているようですね。

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百万遍知恩寺

2010年11月02日 00:45

百万遍知恩寺 

百万遍知恩寺04780


百万遍知恩寺で、恒例「秋の古本まつり」が開かれていました。今年は10月30日から11月3日までのようです。
夏の下鴨神社の「納涼古本まつり」に比べれば、出店数は少なめですが(夏は近畿一円からの出店で、秋は京都の店だけのようです)、気候は格段に秋の知恩寺の方がいいですね。

百万遍知恩寺04785

ただ今年は、あいにく台風の影響もあって、天候には恵まれず、古本店の皆さんには気の毒でした・・・。
さて、自分は特に古本好きということでもないので、たまたま通りかからなければ入りませんでしたが、偶然欲しいものがあり、一冊ゲットいたしました。
近代文学館 精選 名著復刻全集「武蔵野書院版『檸檬』梶井基次郎」(1976年刊)です。


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〈近代文学館 精選 名著復刻全集「武蔵野書院版『檸檬』梶井基次郎」〉

山門入ってすぐ右に店を構える紫陽書院さんで購入。500円也。

梶井基次郎が亡くなる一年前(1931年)、生前唯一の本として武蔵野書院から出版されたのが作品集『檸檬』。
ホンモノを手に入れることは不可能なので、このよくできたホンモノに見紛うニセモノでも大満足。

百万遍知恩寺04794



さて「百万遍」といえば、今出川通りと東大路通りの交差点の名称ですが、もちろんその由来は北東に位置する浄土宗大本山の知恩寺にあります。

百万遍知恩寺04796



慈覚大師円仁上人(794-864)が加茂の神宮寺として創建した庵が、その場所(現在の相国寺付近)から「賀茂の河原屋」と呼ばれます。
その後、今から800年前に浄土宗の開祖・法然上人(1133-1212)が度々この「賀茂の河原屋」を訪れ、念仏の教えを人びとに説き、遺訓である「一枚起請文」を記し、弟子の源智上人に託すのです。
法然上人の没後、源智上人は法然上人の御影を祀り、ここを念仏道場と改め、法然上人の“恩”を“知”る“寺”から「知恩寺」と名付けます(知恩寺の一世は法然上人、二世は源智上人となっています。ちなみに同じ浄土宗の総本山・知恩院よりも“知恩”はこちらの方が早く名乗っているのです)。

元弘元(1331)年、都に疫病が大流行しました。
時の住職である8世善阿上人が、後醍醐天皇の勅命によって念仏を7日間にわたり百万遍修すると、たちまち疫病は鎮まりました。
この功により、寺に「百万遍」の号と、弘法大師の筆になる「利剣の名号」(剣のように尖った文字で「南無阿弥陀仏」と書かれた文字)を天皇から賜ったのです。

戦乱や火災に度々遭い、数度の移転(弘和2(1382)年に一条小川へ、文禄元(1592)年には寺町通り荒神口上ルへ)を経て、寛文2(1662)年に現在の地へ移り、阿弥陀堂や御影堂をはじめとする豪壮な七堂伽藍が整ったのでした。


百万遍知恩寺都名所図絵 p


長徳山知恩寺百万遍は浄土鎮西四ケの一本寺なり、古は加茂の神宮寺にして、慈覚大師の草創なり。法然上人鴨下上を尊信ありて感応を得給ひ、一宗を弘通し給へり。又ある時鴨皇太神宮懇う望ありて、末世衆生のため一枚起請を書しめ給ふ、是より当寺を改て念仏の道場とし、徒弟勢観房源智上人に附属し給ふ。〔源智上人は当寺の二世にして、備中守師盛の男なり、無双の智者といひ伝ふ〕後醍醐天皇の御宇に、日本大に疫癘流行て死するもの数しらず、帝これを憐給ひて諸の祈祷ありといへども更に験なし。時に当寺の八世善阿上人に勅命ありて是を祈らせ給ふ、善阿参内して更に余行なく、一七日の間念仏すること一百万遍なり、疫病忽に退て天下安堵す、〔此時修する所の大珠数今にあり〕帝大に叡感ありて号を百万遍と賜る。〔此時弘法大師の筆跡利剣の大名号を賜ふ、当寺の什宝なり〕本堂には元祖大師の像を安置す、本師堂の釈迦如来は慈覚大師の作なり、鎮守は鴨太神宮なり。〔毎歳葵祭には当寺に於ても法楽の神事を執行あるなり〕堂前の石碑は、建久年中に小松内府重盛宋朝へ黄金を渡さる、其志に感じて襄陽の龍興寺より石刻の阿弥陀経を賜る、〔今筑前国善導寺にあり〕其形を模す所なり。〔一心不乱の以下廿一字の増字は此石経を濫觴とす〕

『都名所図会』(安永9(1780)年刊行)より



毎月15日には、「手づくり市」が開催され、境内は人で溢れます。



北野天満宮 その1

2010年11月25日 22:58

北野天満宮


毎月25日は「天神さん」の縁日ですね。

北野天満宮00562

祀られている菅原道真の誕生日が6月25日、亡くなったのが2月25日。その25日にちなんで、毎月25日は縁日として境内周辺には露天が立ち並び、一日中参拝者で賑わいます。

北野天満宮00566

特に1月の初天神、12月の終い天神、そして受験シーズン間近い正月の三が日は、人酔いするほどに、参道が人で埋め尽くされるのです(笑)。


北野天満宮 (都名所図会)
〈安永9(1780)年刊行『都名所図会』より〉


北野天満宮 一の鳥居00506 〈一の鳥居〉

北野天満宮 楼門00518 〈楼門〉


北野天満宮 三光門05032
〈中門(重要文化財)。後西天皇(寛永14(1638)年―貞享2(1685)年)の御宸筆『天満宮』の勅額を掲げる。日月星の彫刻があることから「三光門」とも呼ばれています〉


北野天満宮 拝殿00544 〈拝殿〉


北野天満宮 本殿00548
〈社殿(国宝)。権現造で桃山時代を代表する建築様式。現在の社殿は、慶長12年に造営されました)



一条戻橋 その1

2010年12月15日 00:13

一条戻橋

京都でもっとも“無粋”な通りは・・・京都市街の中心部を南北に貫く堀川通り。というのは、あくまで独断と偏見です(近くにお住まいの方、ごめんなさい)。

201012111610240ef[1] 〈堀川通り〉


戦前までは、西堀川通り、堀川、東堀川通りの三つは同じくらいの道幅だったのですが、太平洋戦争時、空襲での延焼を避けるため、西堀川通り沿いの家屋が強制疎開させられ、現在の“無粋”な大通りとなってしまったのです。
そんな堀川を1961(昭和36)年の廃止まで市電の堀川線(通称、北野線)が、東堀川通の中立売と四条の区間を走っていました。

20101211160705534[1]
〈映画『夜の河』(1956(昭和31)年)より 東堀川通を走る市電〉


かつての市電が東堀川通から西に曲がったのが中立売通りで、中立売通りの一本北にある通りが一条通。変わり果てた堀川通りの中で、平安京造営時から変わらぬ場所にあり続けるのが有名な「一条戻橋」です。そもそも堀川は平安京を造るにあたり 北山の木材を運搬する運河として開削されました。


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様々な言い伝えや伝説が残る一条戻橋ですが、もちろん『都名所図会』にも紹介されています。

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戻橋は一条通堀川の上にあり、安陪晴明十二神将を此橋下に鎮め、事を行ふ時は喚で是を使ふ、世の人吉凶を此橋にて占ふ時は神将かならず人に託して告るとなん。〔源平盛衰記に中宮御産の時、二位殿一条堀川戻橋の東の爪に車を立させ辻占を問給ふとなん〕又三好清行死する時、子の浄蔵父に逢んため熊野葛城を出て入洛し、此橋を過るに及んで父の喪送に遇ふ、棺を止て橋上に置、肝胆を摧き念珠を揉、大小の神祇を祷り、遂に咒力陀羅尼の徳によつて閻羅王界に徹し、父清行忽蘇生す、浄蔵涙を揮て父を抱き家に帰る、これより名づけて世人戻橋といふ。是洛陽の名橋なり。
〈『都名所図会』(安永9(1780)年刊行)より 一条戻橋〉


『都名所図会』では、二つ橋が架かっていますが、左が「一条戻橋」で、右は小川に架かる「主計橋」です。小川と主計橋は現在ありません。

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三条大橋 その1

2010年12月23日 00:49

三条大橋


鴨川に架かる橋の中でも、橋そのものにもっとも風情をもつのは三条大橋です(今回も独断です)。

歌川広重 「東海道五十三次」
〈歌川広重「東海道五十三次 三条大橋」〉

東海道五十三次の西の起点として栄えたこの橋も、いつ頃からこの場所に架かっているのかは定かではありません。室町時代前期には、簡素な橋が架けられていたとも伝わっています。


都名所図会 三条大橋
三条橋は東国より平安城に至る喉口なり、貴賎の行人常に多くして、皇州の繁花は此橋上に見えたり、欄干には紫銅の擬宝珠十八本ありて、悉銘を刻。其銘に曰、洛陽三条之橋、至後代化度往還人、磐石之礎入地、五尋切石之柱六十三本、蓋於日域石柱濫觴乎、天正十八年庚寅正月日、豊臣初之御代奉増田右衛門尉長盛造之。
『都名所図会』(安永9(1780)年刊行)


本格的な橋となったのは天正18(1590)年、豊臣秀吉の命により、大名の増田長盛が石柱の橋脚へと大改修を行ってからです。ちなみに増田長盛は、五条大橋の改修も行っています。

その後、鴨川の氾濫でたびたび橋は流失しますが、幕府の管理する“公儀橋”としてすぐに修復されます。都において交通の最重要拠点であったことがうかがえますね。

近年では、昭和10(1935)年6月29日の鴨川大洪水で他の橋とともに、三条大橋も倒壊流失の憂き目に遭っています。

元禄以来、幾たびかの改修を経て、昭和25(1950)年に現在の姿となりました。

三条大橋00956

この橋を印象づける“擬宝珠”には、昭和の改修時に取り付けられたもののほかに、天正時代のものが残されていて、日本でも有数に古い擬宝珠でもあるのです。

三条大橋00973


さて、三条大橋の東、川端通と三条通が交わる交差点を「三条京阪」と呼びますが、平成元(1989)年に京阪鴨東線(三条~出町柳間)が開通するまでは、大阪と京都を結ぶ京阪本線の発着駅でした。さらに、大津方面へは、ここ三条京阪が起点となって京津線と繋がり、バスターミナルとともに20年前までは重要な交通網の要所でした(今では京津線も京都市営地下鉄東西線と相互乗り入れをし、完全なる途中下車の駅となってしまいました・・・)。

まだ交通の要所として機能していた頃にあったのが、三条京阪の歩道橋です。この歩道橋に懐かしさを覚える方も多いのではないでしょうか。

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〈大森一樹監督『ヒポクラテスたち』(1980年)より〉

映画『ヒポクラテスたち』では、内藤剛志の演じる左翼学生・南田たちが、森永ヒ素ミルク事件に抗議してビラを配る場面として登場します。

「ヒポクラテスたち」000034

そして、古尾谷雅人の演じる荻野愛作が、ビラを配るかつての同志を見つめる場面・・・の後ろには“土下座”する銅像の姿が(笑)。

まだ携帯電話もなかった頃、発着駅となっていた三条京阪で、学生たちが決まって待ち合わせ場所としていたのが、この通称「三条京阪の土下座像」なのです。

少し詳しい人なら、この銅像が「高山彦九郎」なる人物で、林子平、蒲生君平とともに「寛政の三奇人」と称されていることをご存じでしょう。しかし、何をした人物か、まで知っている人は少ないのではないでしょうか。






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