--年--月--日 --:--

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

五番町夕霧楼 その1

2010年10月03日 22:56

五番町夕霧楼 水上勉 1962年

20101003211608027[1]


金閣寺放火事件が起こったのは、1950年7月2日未明。鹿苑寺の舎利殿である金閣が全焼し、足利義満の木像、阿弥陀如来像、観音菩薩像など計6点の文化財が消失しました。
放火したのは同寺の修行僧で大谷大学学生だった林養賢(法名は承賢)、21歳。左大文字の山中でカルモチンを飲み切腹自殺を試みますが、一命は取りとめ、逮捕されます。


この一大事件を巡ってはいくつかの小説、映画がつくられました。

小説では、三島由紀夫の『金閣寺』(1956年)と、水上勉の『五番町夕霧楼』(1962年)。
そして映画では三島作品をモチーフに、市川崑監督の『炎上』(1958年、大映京都)と、高林陽一監督の『金閣寺』(1976年、ATG)。
水上作品からは、田坂具隆監督の『五番町夕霧楼』(1963年、東映)と、山根成之監督の『五番町夕霧楼』(1980年、松竹)。
さらに水上勉はノンフィクション的小説『金閣炎上』(1979年)も書いています。

20101003211609324[1] 〈三島由紀夫『金閣寺』〉


三島由紀夫の『金閣寺』、水上勉の『五番町夕霧楼』、『金閣炎上』。この3作品は同じ事件に題材を取っていても、主眼は明らかに異なります。

『金閣寺』は、三島特有の冷徹な筆(様式美にこだわった描き方ですね)で、芸術性を指向した作品。
実際の事件を題材に、主人公の足跡も大きく崩さないという約束事は保ちつつも、あとは金閣寺のもつ「美の象徴」と主人公の吃音に代表される「コンプレックス」が事件の遠因だったということにして、三島由紀夫の明晰な頭脳にかかれば一つの芸術が、はいっ出来上がり、という作品です(いや、もちろん凄いのですよっ)。

一方、『五番町夕霧楼』は、放火事件と水上勉の京都時代の実体験とを綯い交ぜながら描かれたフィクションです。
林養賢と同じく学僧経験があり、林が通った遊郭・五番町に同じく通ったことのある水上勉だからこそ書くことの出来た作品だったと言えるでしょう。
あくまで物語の最後は寺の炎上に収斂させますが、題名にあるように田舎から出てきた遊郭での芸妓の生活と淡い恋物語。その恋の相手が、同じ丹後半島出身で幼馴染みの学僧だったというわけです。

2010100321160862c[1] 〈水上勉『金閣炎上』〉

そして、『金閣炎上』は、林養賢と少なからぬ縁のある水上(歳は10ほど離れていますが、故郷は近くの寒村同士で、ともに相国寺派で修行をし、一度きりですが、水上と林はあったこともあります)が、緻密に林の周辺を取材し、放火の動機に迫ろうとした作品です。
林の母親は事件当日、京都府大江山麓から息子への面会に赴くも、林から会うことを拒否され、失意の内に帰途につく列車の中から保津峡に飛び込んで自殺してしまいます。
また懲役7年の刑を言い渡された林は、服役中に結核と統合失調症が進行し、出所を待つことなく病死しました。
『金閣炎上』は、同じ仏門で生き、学び、苦しんだ者としての水上が、林とその母に捧げた鎮魂歌でもあるのです。




スポンサーサイト

五番町夕霧楼 その2

2010年10月03日 23:05

夕霧楼の女将・かつ枝は、単身で故郷の与謝半島(丹後半島)に疎開していた旦那・酒前伊作の最期を看取り、葬式を済ませて京都に帰ってきた。
そのとき一緒に連れてきたのが、19歳の片桐夕子だった。
病身の母、甲斐性のない気弱な木樵の父、そして幼い3人の妹のために自ら覚悟して遊郭に来たのだ。

夕子はすぐに、西陣の織物問屋で羽振りのよい60歳過ぎの竹末甚造に気に入られ、当時のサラリーマンの月給5ヵ月分に相当する2万円で水揚げされる。
不幸な境遇の夕子に、女将のかつ枝は実の子のように優しく接してやり、
また夕子の素直でおとなしい性格もあって、他の8人の先輩芸妓からも温かく見守られ、一人前の娼妓へと成長していく。

妻を亡くし、長男夫婦と離れ、一人で暮らしていた竹末は、夕子を妾にほしいとかつ枝に申し出るが、夕子の幸せを思うとかつ枝は気乗りではない。
そんな中、初めて夕子は一人で町へ散歩に出かけた。
その日を境に、吃音の学生が夕子の客としてやって来るようになる。陰気で挨拶もろくにしない若者だったが、目が澄んでいるのが印象的だった。

DSC04700[1] 〈現在の五番町〉

ある日、竹末と櫟田正順というその若い学生が偶然、夕霧楼で居合わせてしまう。
その後、竹末は春の展示会の会場となっていた燈全寺(モデルは相国寺)で、修行僧の櫟田を見かける。
懺法会の回向の稽古の為に、本来の修行の場であった鳳閣寺(モデルは金閣寺)から本山に来ていたのだった。
すぐに夕霧楼のかつ枝に竹末は耳打ちする。「あの学生は鳳閣寺の小僧やでェ」と。
かつ枝は思い当たることがあった。夕子が京都に来た日、葉書を書いていた中に鳳閣寺の櫟田宛の葉書があったことを。

夕子を心配したかつ枝は、櫟田が鳳閣寺の僧であることを夕子に問いただす。
学生僧が十日と空けず廓に通うことが出来るというのが不思議で、もしや夕子が櫟田の為に花代を立て替えているのではとの疑念を抱いたのだ。

夕子は観念し、説明する。櫟田はかつ枝の旦那・酒前の葬儀をした浄昌寺の子どもで、夕子とは幼馴染みであることを。
和尚である櫟田の父親は実の父ではなく、母の連れ子として寺に入ったこと。そして小さい頃から吃音を人にバカにされ、京都の寺に修行に来てからも仲間からいじめられ、「坊さんになりたくない」と、夕子に打ち明けているという。出生にまつわる暗い屈辱に耐え、生きてきた若者だった。

同じような不幸な境遇から櫟田に惹かれた夕子を理解できなくもないが、かつ枝は櫟田との付き合いを改めるよう言いくるめる。
廓で稼いだ金をその若者に貢いでいる夕子をいっそう哀れに感じた。

櫟田と夕子の関係にかつ枝が気をもんでいる時、竹末が櫟田の情報を仕入れてきた。それは夕子が言っていたことを裏付ける話だった。
そして、「宗務所の坊さんにいうたった。あの櫟田は、十日にいっぺんほど、五番町へゆきよって、夕霧の妓ォにうつつをぬかしとる。そんなことが世間にしれたら、鳳閣さんも、評判おとしまっせいうたった」と竹末は告げ口したというのである。
それ以来、櫟田が夕霧楼に姿を現すことはなかった。

DSC04721[1]
〈当時の面影を微かに残すT字路〉

突然、夕子が喀血をした。母親と同じように肺病を病んでいたのだ。
かつ枝が竹末に「一度会いに来てくれ」との電話をしても、商売に忙しいのか、つれない返事だった。所詮、竹末も夕子にとっては赤の他人だと、かつ枝は痛感し、夕子を不憫に思った。

ずっと部屋で養生していた夕子だったが、肺外科の権威がいる病院に入院する。大事にいたる前に、疾患部の根絶をはかった方が良いとのかつ枝の親心だった。
そして、かつ枝は櫟田に夕子の入院のことを知らせようと鳳閣寺に向かう。竹末の告げ口によって老師から叱られ謹慎の身である櫟田に。
櫟田は夕霧楼に来て夕子と会っている時だけが、昔、兄妹のように夕子と寺の百日紅の木に登って遊んだ楽しく明るかった頃に戻れたのだ。それは夕子にとっても同じことだった。

鳳閣寺で、かつ枝は櫟田から夕子に言付かった。「もうすんだ、安心せい」という言葉を。そう言ったきり、櫟田はかつ枝の元から走り去った。
かつ枝が鳳閣寺を訪れたその日の深夜、鳳閣寺が炎上した。その燃える様子を、五条の病院の一室から夕子も見ていた。

ひと月後、櫟田は留置所で自殺を図り、死亡した。その死亡記事の出た日、「町へ涼みに行く」といったまま夕子は病院から失踪する。
夕子の死骸が見つかったのは故郷、浄昌寺の裏にある墓地の百日紅の根元だった。




五番町夕霧楼 その3

2010年10月03日 23:12

花街の物語、とくに遊郭となると、とかく同僚同士の陰湿なイジメや、経営者の過酷な搾取のイメージがつきまといがちです。
しかし、この『五番町夕霧楼』に、従来抱く遊郭特有の暗さはありません。敢えて言うなら、登場人物の生まれもっての業の暗さといったものでしょうか。
むしろ女将であるかつ枝の、芸妓たちを思いやる優しい気持ちが、彼女たちの置かれた立場をさらに切なく読者に感じさせてしまうのです。

水上勉が初めて五番町に足を踏み入れたのは17歳の頃。まだ等持院での小僧時代でした。
それから京都を離れる21歳まで、何度となく通い、「千鶴子」という馴染みの芸妓もいたといいます。
「青春のすべてを五番町に埋めた」というくらいに思い入れの深い場所だったようです。

「西陣京極のある千本中立売から、西へ約一丁ばかり市電通りを北野天神に向かって入った地点から南へ下る、三間幅ほどしかない通りである。この通りは丸太町まで千本と並行してのびているが、南北に通じるこの通りを中心にして、東西に入りこむ通りを含めて、凡そ二百軒からなる家々は軒なみ妓楼だった」(『五番町夕霧楼』本文より)

DSC04756[1] 〈現在の夜の市電通り〉

そんな小さな遊郭の五番町へ、放火犯である林養賢が、放火の一週間ほど前に登楼し、娼妓に「もうすぐ大変なことをやってみせるぞ」と漏らしていたことが、この物語を生むきっかけともなったようです。



売春防止法が施行されて赤線が廃止されたのは、1958年(昭和33年)。
今の五番町には昔日の面影はまるでありません・・・。
ただ、引き取り手のない遊女の亡骸を葬った「投げ込み寺」と呼ばれた報土寺が、住宅街となりマンションの建つ町なかに、今もひっそりと残っています。

DSC04727[1] 〈「投げ込み寺」と呼ばれた報土寺の塀〉

事件当時の西陣は、『五番町夕霧楼』の登場人物・竹末甚造ら「糸ヘン景気で闇金をにぎった特権階級」に代表されるように、未曾有の好景気に沸いていました。
その活況ぶりは町を見ても明らかで、西陣、とくに千本通り一帯(北は今出川通から上長者町通にかけた長さ約700mの西陣千本商店街付近)は、新京極と並ぶ歓楽街として人の波で溢れていたのです。
最盛期には20軒ほどの映画館があったともいわれていますが、現在は成人映画専門の映画館がわずか一軒残るのみとなっています。

かつて五番町の検番があった場所に建つ「千本日活」。

DSC04705[1]

映画館のホームページによると、1964年の『愛と死をみつめて』(主演・吉永小百合、監督・斉藤武市)が入場者数の最高記録だったそうです。
いまだにポルノ映画を放映している時代遅れの映画館ですが、ちょうど土曜日だということもあり、近隣のオッチャンたちが自転車で乗り付けて入っていく姿が、思いの外、目につきました。

DSC04712[1]

かつての色町に、その爪痕のようにひっそりと残っているポルノ映画館。すっごく哀愁を感じますね。
少しでも長く、続けていってほしいものです。


すっぽん鍋で有名な「大市」。こちらは五番町を少し南へと行った六番町にあります。目と鼻の先の距離です。

DSC04717[1]


五番町から千本中立売の交差点を挟んで北東にある「西陣京極」。昔はこの中にも何軒かの映画館がありましたが、今は飲み屋と一軒の銭湯が営業しているだけです。すこし猥雑な路地の雰囲気がいい味を醸し出していますが、あまり人は通っていません。

DSC04753[1]


あ、そうそう、井筒八ッ橋本舗の生八ッ橋「夕子」っていうのは、五番町夕霧楼の「片桐夕子」から名付けたそうですよ。昭和49年から発売されている息の長い銘菓ですが、ちゃんと水上勉の許諾も取ってあるんですって。




五條楽園 その1

2010年12月29日 00:38

「五條楽園ひっそり 経営者ら逮捕、お茶屋など一斉休業」

2010年11月20日付の京都新聞朝刊で報じられた記事の見出しです。さらに以下のように続きます。

府警は10月28日と11月18日、売春防止法違反容疑で、お茶屋と置屋の統括責任者や経営者ら計5人を逮捕した。府警によると、五條楽園の摘発は「平成に入って初」。最近の週刊誌やインターネットで売春の実態が掲載されたのがきっかけの一つという。
逮捕を受け、お茶屋と置屋は10月28日から一斉に休業した。11月17日には、一帯の入り口に掲げていた「五條楽園」の看板や案内図が撤去された。あるお茶屋は「終戦直後から続けており、今さら別の商売もできない。宣伝もせずひっそりやってきたのに・・・。再開の予定はない」としている。


20101227214915d05[1]


京都が誇る五つの花街(上七軒、祇園甲部、祇園東、先斗町、宮川町(残念ながら島原は今では花街とは呼べませんね))が“陽”ならば、この五條楽園は京都人から忘れ去られた“陰”の町・・・。
京都でもっともディープな町、それが東九条と、この五條楽園といっていいでしょう。
しかし陰の町といえども、大正や昭和初期の建物が混在し、これほど淫靡な“情緒”をかもしだす町は日本中探してもそうみあたらないはずです。

「五條楽園」とは「北は五条通、南は正面通(七条通りの二筋北)、西は河原町通、東は鴨川」に囲まれた“遊郭”のことです。
京都新聞によれば、現在も15軒の「お茶屋」と4軒の「置屋」が点在しているようですが、「お茶屋」や「置屋」と聞いて、祇園のそれを思い浮かべてはいけません。

201012272147482ac[1]

さて、この町の歴史ですが・・・、
「五條楽園」のある一帯は、江戸後期には京都で最も大きな遊廓として繁栄していて、もともとは五条橋下(五条新地)、六条新地、七条新地といういくつかの近隣の遊郭が大正時代に合併し「七条新地」と呼ばれるようになりました。
芸妓と娼妓が混在していた町が、昭和初期には娼妓ばかりとなり、戦後は赤線(政府公認で売春が行われていた地域)となって、1958(昭和33)年の売春防止法施行後に「五条楽園」と名が改められます。ちなみに1960年頃には約60軒ほどのお茶屋があったのだとか。

50年前の売春防止法施行をかいくぐり、ひっそりと存在してきた町・・・京都のタブー・・・それが「五條楽園」なのです。

立て続けに二度も摘発を受け、町も看板や案内図を撤去したとあっては、今回は当局も本気か? と心配してしまいますね。
何が心配かというと・・・お姐ちゃん・・・もそうですが、この町並みが、です。

20101227214747268[1]

売春防止法によって、京都市内でも上京区にあった遊郭・五番町は急速に寂れ、今では往時の面影がまったく見られないのですから・・・。数十年後には五番町と同じ運命を辿るのではないかと懸念するのです。




五條楽園 その2

2010年12月29日 00:45

それでは、すこし五條楽園を歩いてみましょう。
お茶屋さんや置屋さんだけではなく、多くの民家がありますので、迷惑をかけない程度に、ね。

20101227215340b42[1] 〈五条大橋〉

五条大橋のすぐ西から高瀬川沿いに南へ行くと、そこが五條楽園です。


20101227215341aed[1] 〈高瀬川〉

高瀬川を挟んで、左が木屋町通、右が西木屋町通。


20101227215259dfc[1] 〈源融 河原院跡〉

いきなり、名所の登場です。

源融(みなもとのとおる)(弘仁13(822)年―寛平7(895)年)とは嵯峨天皇の皇子で、『源氏物語』の光源氏のモデルとなった人物です。左大臣であった源融が、摂政・藤原基経の台頭により失脚し、隠棲した邸宅「河原院」(東西は鴨川の中央あたりから柳馬場通、南北は五条から正面通あたりまで)が、このあたりだったのです。写真にある榎の大樹はこの邸内にあった森の名残といわれています。
後ろに映っている鳥居の中には榎大明神が祀られ、榎はその神木として崇められ、平成12年には京都市の「区民の誇りの木」に選ばれました。
ちなみに「河原院」が「河原町」という通り名の由来でもあります。

20101227215300327[1]

おしゃれな黒板の家(お茶屋さん?)の壁に鳥居が貼りつけられ、中には榎大明神がいらっしゃいました。


201012272147486cb[1] 〈鴨川沿いのお地蔵さんの祠〉

後ろに見えるのが五条大橋です。五條楽園界隈には至る所にお地蔵さんが祀られています。


2010122721530025c[1]

高級料亭にも負けない外観のお茶屋さん。目隠しのためのすだれが2階の窓に綺麗にならんでいます。あの窓から眺める高瀬川はおつなものでしょうね。


201012272153010df[1]

先ほどの大きなお茶屋さんを過ぎ、現れたのがこのお風呂屋さんです。以前はこの橋の上に「五條楽園」の大きなネオンサインが出ていましたが、今は撤去されています。


20101227215301b64[1]

小径のトタン壁にも遊び心が出ています。


20101227215040f0e[1]

おそらくかつてのお茶屋さんだった建物です。小路にいきなり立派な唐破風をしつらえた建物が出てくるのですからびっくりです。






Twitterボタン

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。