大谷本廟 円通橋

2011年04月12日 00:39

大谷本廟 円通橋


さて、気が向いたときの、橋シリーズでも・・・。

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桜の季節で賑わう東大路通りの、五條坂のふもと・・・大谷本廟にも多くの参拝者が訪れているようです。

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その大谷本廟の唐門の前にかかるのが「円通橋」、通称「めがね橋」です。
橋脚によって作られた二つの真円アーチが池水に映る姿を、当時の人々は眼鏡にたとえ、親しみを込めてそう呼んだのです。

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1603(慶長8)年、徳川幕府の政策によって五条坂の現在地に移転してきた大谷本廟ですが、この橋が造られたのは、1856(安政3)年。
幕末の1864(元治元)年に刊行された『花洛名勝図会』にも紹介され、建造当時より「めがね橋」と呼ばれていたことも興味深いです。

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〈『花洛名勝図会』大谷 唐門 円通橋より〉

江戸時代後期の歌人で、古筆刀剣の鑑定で知られる能勢春臣こと竹屋春臣は、この橋を「はちす咲池にかけたる玉橋は涼しき国に通ふなりけり」と歌っています。

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歌にある“はちす”とは、もちろん蓮のこと。
『花洛名勝図会』にも、橋の架かる「皓月池(こうげついけ)」の北には白蓮が、南には紅蓮が咲いていたことが描かれ、今も夏にはきれいな蓮が咲いています。

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円通橋は、長さ40メートル、幅6メートルの大きさで、橋脚、敷石、欄干など総て花崗岩の切り石でつくられ、「奇巧をつくした石橋」として珍重されてきました。橋脚の二つの真円アーチの他にも、高欄の親柱に用いられた頭飾りは「逆蓮頭(ぎゃくれんとう)」といい、神社仏閣特有の飾りつけで、名前の通り、蓮の花を反対にかぶせたような珍しいカタチをしています。

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京都で石造りの真円アーチ橋としては、「堀川第一橋(中立売橋)」(1873(明治6)年建造)が有名です。中立売橋は、京都の中では最も美しい小橋のうちの一つだと思うのですが、この橋が半円に近いカタチであるのに対して、

2011041118330971c[1] 〈堀川第一橋(中立売橋)〉

「円通橋」は年代的にも少し古い上に、真円そのもののカタチが見えていて・・・どちらも甲乙つけがたい名橋ですね。

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京の名所図会

2011年05月03日 01:47

『都名所図会』から『花洛名勝図会』まで


当ブログでもたびたび引用している『都名所図会』『拾遺都名所図会』ですが、江戸時代後期には当時の旅行ガイドブックたる各地の「名所図会」が多数出版され、好評を博します。

そのような時代にあって、挿絵付の本格的な「名所図会」の嚆矢となったのが、安永9(1780)年に出版された『都名所図会』でした。

『都名所図会』が出版されるまでにも断片的な「名所記」や町の由来を解説した「町鑑」の類は多数出ていたものの、まとまったカタチでの出版物はなかったようです。

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〈『都名所図会』より 金閣寺〉

『都名所図会』は京都寺町五条の書林・吉野屋の吉野屋為八が企画し、図版の出版に抗議が出ないようにと(当時から著作権は厳密だったのです)、それまで京都で出版されていた「名所記」の版木(出版権)をあまねく買い取るという用意周到の上で、作られ始めました。

京都の俳諧師・秋里籬島(あきさと・りとう)が文章を担当し、大阪の絵師・竹原春朝斎(たけはら・しゅんちょうさい)が挿画を施し、版木の彫刻も含め出版までには五年の歳月がかかったといわれています。


『都名所図会を読む』(宗政五十緒編、1997年、東京堂出版)によると、当初は思うように売れなかったそうですが、当時の大阪城代が江戸へ参向した時、親類縁者の土産として『都名所図会』を十数部持ち帰ったところ、評判となってその翌年から一年に四千部売れる大ベストセラーとなりました。

『都名所図会を読む』
〈『都名所図会を読む』(宗政五十緒編、1997年、東京堂出版) 現在、最も手軽に『都名所図会』に触れることのできる書物です〉

この『都名所図会』で大利を得た吉野屋為八は、さらに続編である『拾遺都名所図会』を天明7(1787)年に刊行。そして、京都にとどまらず『大和名所図会』『住吉名勝図会』『摂津名所図会』『和泉名所図会』『東海道名所図会』・・・と次々に各地の名所図会を出版していくのでした。


【都名所圖會(都名所図会)】安永9(1780)年

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〈清水寺〉

名所図会の先がけとなった墨摺六冊本。本文は俳諧師・秋里籬島が著し、図版は絵師・竹原春朝斎が描き、京都の書林・吉野屋から安永9(1780)年に刊行されました。
京都の名所旧跡を、洛中、洛東、洛西、洛南、洛北の順に、文章と絵巻風の鳥瞰図・風俗図とによって紹介。主に神社・仏閣を取り上げています。この造本や版面・挿絵の様式が、後の名所図会に受け継がれることとなりました。好評のため版木が摩耗し、天明6(1786)年に再版されています。


【拾遺都名所圖會(拾遺名所図会)】天明7(1787)年

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〈二軒茶屋〉

『都名所図会』の後編として天明7(1787)年に刊行された墨摺五冊本で、本文と図版は前回と同じく秋里籬島と竹原春朝斎が担当。
その名の通り、『都名所図会』で漏れた名所を拾い集めているため、町や小路にある小祠や小寺院も収録されていますが、これらの多くは文章の解説にとどめ、代わりに大社の祭礼や四季の年中行事の様子を多く取り上げ、当時の人々の風俗をより知ることが出来ます。


【都林泉名勝圖會(都林泉名勝図会)】寛政11(1799)年

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〈伏見稲荷社 初午〉

寛政11(1799)年に刊行された墨摺五冊本で、『都名所図会』と同じく本文は秋里籬島が著し、挿絵は佐久間草偃、西村中和、奥文鳴の三名が競って描いています。京都の名所、その中でも特に庭園を中心に描かれているのが特徴です。


【花洛名勝圖會(花洛名勝図会)】元治元(1864)年

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〈大文字送り火〉

元治元(1864)年に刊行された墨摺八冊本で、原案は平塚瓢斎が担当し、木村明啓と川喜多真彦の二名が執筆。挿絵は松川安信、四方義休、楳川重寛ら複数名が描いているようです。当初は洛中を初め、東、北、西の山々を部として六編が予定されていましたが、実際に出版されたのは第二編の「東山之部」のみ。



六道珍皇寺 六道まいり

2011年08月09日 01:03

六道珍皇寺 六道まいり

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普段は町なかのひっそりとした寺院のひとつ・六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)ですが、お盆の時期が近づくと多くの参拝者で賑わいます。
小野篁(802年―853年)が夜な夜なこの寺の井戸から冥界に通い、昼は宮中の高級官僚、夜は閻魔大王のもとに仕えていた、というのは有名な話。
今も境内の閻魔堂(篁堂)には篁自身の作と言われる不気味で迫力のある閻魔大王と篁の木像が並んで安置されています。

DSC03935_R.jpg 〈閻魔堂(篁堂)〉


そもそも、平安の世から鳥辺野と呼ばれる葬送の地に近いこのあたり一帯は“六道の辻”と呼ばれ、冥界の入り口にあたる場所とされていました。

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〈「六道の辻」の石碑。南に行くと、空也上人像で有名な「六波羅蜜寺」〉

六道珍皇寺の表門から松原通を西に向かうと西福寺や幽霊子育飴で有名な「みなとや幽霊子育飴本舗」があり、その辻角には「六道の辻」と刻まれた石碑が建っています。

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〈みなとや幽霊子育飴本舗〉

六道とは、天上、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄の六種の冥界のことをいい、その六道への入り口であり分岐点となるのが「六道の辻」なのです。

DSC03891_R.jpg 〈表門〉

京都では古くから、盂蘭盆会の前(現在は毎年8月7日から10日までの四日間)に六道珍皇寺へ詣り、先祖の精霊が迷わず家に帰ってこられるように迎え鐘をついて、呼び戻すのです。珍皇寺では、参道で売っている高野槙(こうやまき)を買い、本堂で水塔婆に戒名を書いてもらい、「迎え鐘」をつきます。

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人で賑わう様子は『花洛名勝図会』の「六道珍皇寺 聖霊市」の中でも見受けられます(『花洛名勝図会』では閻魔堂と篁堂が別々のお堂として描かれていますが、現在は二つの像は一緒のお堂に祀られています)。

花洛名勝図会「六道珍皇寺 聖霊市」 - コピー
〈『花洛名勝図会』(元治元(1864)年刊行)より 六道珍皇寺 聖霊市〉


六道珍皇寺の縁起は定かではないものの、平安時代前期の延暦年間に、大和の僧・慶俊僧都によって建立されたのが始まりとされ、弘法大師空海が寺域を拡大し中興の祖として崇められるも、度重なる戦乱の煽りを受け荒廃。南北朝時代に臨済宗建仁寺の聞渓良聡が再興し、それ以後、建仁寺派の寺院として現在に至っています。

珍皇寺は建仁寺の南松原通にあり。〔六道と号す〕本尊薬師仏は伝教大師の作にして、開基は慶俊僧都、中興は弘法大師。篁堂には小野篁の像を安置す。〔此所より冥土へ通し道なりとぞ〕焔魔堂は東の方にあり、迎鐘は七月九日十日参詣の人此鐘を撞て聖霊を迎しむるなり。六道の辻〔本堂の前にあり〕当寺は久代平安城の葬所なり、桓武天皇延暦十三年に長岡より此京にうつらせ給ふ時、此所を諸人の葬所に定め給ふ由、遷都記に見えたり。又こゝを愛宕ともいふなり。
〔源氏物語に、桐壺の更衣を葬り、おたぎといふ所に其さまいかめしうしてと書るも、此所の事なり。河海抄には、弘法大師の聖跡として、東寺の長者官領しけるとかや。今は建仁寺の塔頭大昌院の兼帯所となる〕
北斗堂、いにしへ六道の東貳町許にあり、北辰を祭りて柱に高灯籠をかけたり、城南淀川の回船運送の目当に常夜灯をかゞやかす。熊野の謡曲に、北斗の星の曇なきと諷ふは是なり、応仁の兵火に亡ぶ。〔一年とせ金森宗和江府より上洛の時、清水寺に詣で、此灯籠の倒れて苔に埋しを寺僧に乞うけ、吾妻の奇物として今に芝の御館にあり〕
〈『都名所図会』(安永9(1780)年刊行)より 珍皇寺〉

DSC03900_R.jpg 〈本堂〉

ちなみに六道珍皇寺の本堂の裏にある井戸は“死の六道”といい冥界への入り口であって、出口はまた別にありました。それが、かつて嵯峨野にあった福生寺(明治初年に廃寺)の“生の六道”と呼ばれる井戸(現在は清涼寺の境内に石柱が建っています)です。
西の葬送の地・化野(あだしの)に近い福生寺には、小野篁作“生の六道地蔵尊”像と小野篁像が祀られていましたが、廃寺後は清涼寺の塔頭である薬師寺に移され、今も現存します。

どちらも葬送の地であったことから、そのような“いわれ”が伝わってきたのでしょう。

さらに、北の葬送の地として有名な蓮台野の入り口には、これも小野篁と縁の深い「千本ゑんま堂」こと引接寺(いんしょうじ)があり、ここでも“お精霊迎え”が行われています。

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〈千本ゑんま堂(引接寺)〉

千本ゑんま堂の本堂に祀られている巨大な閻魔像も小野篁が作ったと伝えられ、その迫力は珍皇寺以上・・・。

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〈千本ゑんま堂の閻魔像〉


どうして、六道珍皇寺の鐘が「迎え鐘」として、これほどまでに信仰の対象になったのかといえば・・・、
六道の迎鐘〔珍皇寺にあり。毎年七月九日十日盂闌盆会に出し、諸人に撞しめ、聖霊迎鐘と称す。此鐘は慶俊僧都これを鋳て土に埋しめ、三箇年を経て掘出すべきよし寺僧に約して入唐し侍りぬ。其後別当にてありける法師、二箇年を待ずして掘出し撞ける、其声こそ唐土に聞へけれ、慶俊僧都大に嘆じて曰、此鐘人の撞ざるに自然に鳴ざんと思ひつるに、早掘出す事の口惜さよと宣ひける。件の僧都は弘法大師の祖師なりとぞ、古事談或は今昔物語にも見へたり。今も此鐘は遠境に響く事他に並びなし、希代の霊器なり〕
今昔物語云  盂闌盆の日、まづしぎ女の、祖のため着たりける薄色の衣を盆に入蓮葉をうへに覆ふて、愛宕の寺に持参りてふし拝み泣拝み泣去にけり。人あやしみてこれを見れば、蓮葉にかくぞ書たりける。
       たてまつる蓮のうへの露ばかりこれを哀と三世の仏も
〈『拾遺都名所図会』(天明7(1787)年刊行)より 六道迎鐘〉

上記の『拾遺都名所図会』で語られている通り、『古事談』や『今昔物語』にもこの「迎え鐘」の逸話が残っています。この鐘は六道珍皇寺の開基・慶俊僧都が作らせたものですが、僧都が中国の唐に赴く際に、この鐘を三年の間、地中に埋めておくことと寺僧に命じて旅立ちました。ところが寺を預かっていた別当が二年を待たずに掘り出して、鐘をついたところ、唐にいた慶俊僧都の耳にも届いたのです。そして僧都は悔しがります。もし、あの鐘を三年間地中に埋めていたならば、その後、人がつかなくても自然と鳴ったのに・・・と。しかし、唐までも響いたこの鐘は希代の霊器に違いなく、この鐘の音は冥界まで届いているだろうということで、「迎え鐘」となったのです。

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〈六道珍皇寺の「迎え鐘」〉


なお、「迎え鐘」に対して、「送り鐘」で有名なのが、寺町三条を上がった矢田寺の「送り鐘」です。



大文字 五山送り火 その2

2011年08月16日 23:29

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〈『花洛名勝図会』(元治元(1864)年刊行)より 大文字送火〉


大文字にちなむ言い伝えとして・・・、
丸い盆に水や酒を入れ、これに送り火を映して飲むと中風にかからないとか、
松割木(護摩木)に自分の名前と年齢を書き、山上の松割木とともに焚くと厄除けにきくとか、
焼かれた後の割木の灰を飲むと、一年が安息に暮らせる・・・などと言った俗信が今も残されています。

祇園祭と同じように、京都の町の人々の心意気で400年ちかくにわたりつづいてきた「送り火」も、近代に入り残念ながら幾度かの中止をみました。
最も影響が大きかったのは、明治初年から始まった廃仏毀釈運動です。京都府は明治5(1872)年に「盂蘭盆会ト称シ精霊祭等停止ノ事」を通達し、「送り火」を含む盂蘭盆会を禁止。明治16(1883)年に解かれるまで大文字が灯されることはありませんでした。

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〈賀茂大橋の西詰めより眺める普段の大文字山〉

また、戦時中の昭和18(1943)年から昭和20(1945)年までの三年間、資材人手不足や戦時中の灯火管制の理由から点灯が中止されていました。
ただし戦時中の大文字で忘れてはならないのが、「白い大文字」です。
これは昭和18年8月16日の早朝、京都市立第三錦林国民学校の児童や父兄、そして地元住民らが、白い服装で、大きな白いハンカチ、布を持って、大文字山に登り「大」の字に並んで白い文字を描き出したのです。戦意高揚と、戦没者の慰霊の気持ちを込めてのものでしたが、もちろん例年の盂蘭盆会としての伝統を繋いでおきたいという強い思いがあったのでしょう。いかに市民にとってこの恒例行事が大きい存在だったかがうかがわれる悲しい逸話です。そして翌年にも同じく白い大文字は京都の町に浮かび上がったのでした。

さらに昭和38(1963)年には大雨のため、大文字だけ点灯することが出来ず(他の四山は灯されました)、翌日に延期されるという珍しい事態も・・・。

賀茂大橋よりDSC04454_R 〈賀茂大橋より〉


そして、この大文字、たびたびイタズラの標的ともなってきました(苦笑)。

その中でも有名なのが、昭和47(1972)年10月30日の夜に、送り火の季節でもないのに灯った事件です。
学生運動も一段落したこの年、運動崩れの暇な京都市内の大学生が酔狂で、大文字の点灯を計画。70人あまりの学生(大文字の火床と同じくらいの人数)が参加し、夜の大文字山に登って、懐中電灯で「大」の文字を照らし出したのです。

また平成15(2003)年9月13日には、18年ぶりのリーグ優勝が間近に迫った阪神タイガースのマーク「HT」が「大」のかわりに灯もったのも記憶に新しいところです(といってもこの時は25名ほどの人数しか集まらず、うっすらとでしたが・・・)。

イタズラの中には、たびたび「大」を「犬」に変えようと、送り火当日、大文字山に忍び込む輩が絶えず、近年の厳しい入山規制へと繋がりました。

そして、イタズラをした人間は、保存会の人にこっぴどく怒られ、“宗教行事”であることを滔々と説かれるらしいのですが・・・、この「大文字」、宗教行事と称しているわりには、たびたびイベントでの点灯もなされてきたのです。

古くは明治23(1890)年4月8日、琵琶湖疏水竣工祝賀夜会で灯され、
明治24(1891)5月9日にはロシアの皇太子(大津事件で有名な後のニコライ2世)の入洛に際し、歓迎の意を表して点火し、
明治27(1894)5月15日には明治天皇の京都訪問に合わせ、日清戦争勝利祝賀のため点灯、
明治38(1905)年6月には日本海海戦での勝利を祝し、また同じ年の11月には海軍大将・東郷平八郎の凱旋に際して灯され、
昭和10(1935)年4月に満州国皇帝・愛新覚羅溥儀が京都を訪れた際には、大文字を灯して歓迎の意を表し、
近年では、平成12(2000)年12月31日に京都市の「21世紀幕開け記念事業」の一つとしてミレニアム記念という意味不明なこじつけで灯されたりして・・・(苦笑)。

出町橋よりDSC04461_R 〈出町橋より〉

もはや宗教性を超えて、イベント化、観光化とは切っても切り離せない「五山送り火」ですが、8月16日の晩にこの「送り火」を見ながら手を合わせて、亡き人を思っている人もいるのですから、悪ふざけをおもしろがるのも、ほどほどに・・・。



泉涌寺 その2

2011年10月08日 01:33

花洛名勝図会「泉涌寺」 - コピー
〈『花洛名勝図会』元治元(1864)年刊行より 泉涌寺〉


DSC03327_R.jpg 〈霊明殿〉

明治15(1882)年に前の霊明殿が火災によって焼け、明治17(1884)年に明治天皇によって再建された尊牌殿で、天智天皇から昭和天皇までの歴代天皇の尊牌が祀られています。


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〈本坊(左)と、御座所(右)〉

明治15(1882)年の火災で、霊明殿とともに、庫裡・書院も焼失。そこで明治天皇の命により、明治17(1884)年の霊明殿の再建とともに京都御所にあった皇后宮の御殿を移築した建物。
中には女官の間、門跡の間、皇族の間、侍従の間、勅使の間、玉座の間などがあり、今でも玉座の間は、天皇皇后が来寺した際に休息所として使用されています。


なお、この「御座所」とそれに連なる「庭園」、さらに「海会堂」(京都御所にあった“黒戸”とよばれる仏堂を明治元(1868)年の神仏分離令にあわせて泉涌寺に移築したもの)は本来の拝観料大人500円のほかに、特別拝観料大人300円を払わなければ入れません。



DSC02136_R.jpg 〈泉涌水屋形〉

泉涌寺という寺名の起源となった泉です。今も水が湧き出ています。



DSC03330_R.jpg 〈月輪御陵拝所〉

霊明殿の東には「月輪陵」「後月輪陵」と呼ばれる陵墓があります。四条天皇から仁孝天皇までの二十五陵、五灰塚、九墓が営まれ、天皇陵の入り口の板書きは・・・、

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京都には数々の天皇陵がありますが、これほどまでに“やんごとなき”人々の名が連なった宮内庁の板書きは見たことがありません。不謹慎ながらも・・・圧巻です。

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「月輪御陵拝所」の間近には近寄ることは出来ないようにロープが張ってあります。

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菊の紋をかたどった手水!



泉涌寺で最も女性に人気なのが、「楊貴妃観音」です。入り口の大門を入って左手奥の小さな楊貴妃観音堂に祀られていて、十六羅漢像の中央に安置される聖観音像の通称です。

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世界三大美女のひとり・楊貴妃がモデルとされ、かつては100年に一度しか公開されない秘仏でした。
湛海が建長7(1255)年に舎利殿に安置される韋駄天像と月蓋長者像などとともに中国の南宋から請来したものとされ、請来700年目の昭和31(1956)年から一般公開されるようになりました。

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玄宗皇帝が亡き楊貴妃の冥福を祈って造顕させた像との伝承が残り、今も美人祈願の像として崇敬を受けているのです。


おまけ・・・、こんなところにまで「宮内」の文字が。

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