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雁の寺 その1

2010年10月29日 00:12

雁の寺 水上勉 1961年


水上勉は1919(大正8)年、若狭に生まれます。四男一女の次男坊で、口減らしのため、京都にある相国寺の塔頭・瑞春院に入れられたのが1930(昭和5)年、10歳の時でした。1年後には得度し、僧名は大猶集英となります。

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〈瑞春院。“水上文学名作の舞台”の看板が・・・〉

水上が弟子入りしたのは山盛松庵という住職のもと。この住職には多津子という女性と、生まれたばかりの赤ん坊がいました。
それまで、禅宗の坊主というものは墨染めの衣に一汁一菜の粗食で、妻帯も許されないものだと思っていた水上少年にとっては、住職の生活は少なからず衝撃的だったようです。
小学校は寺と目と鼻の先の室町小学校に通いますが、朝の五時に起床し、掃除、飯炊き、そして授業を終え帰った後も赤ん坊を背負って庭の草取りという毎日。おむつ洗いも日課だったとか・・・。
かたや住職夫婦は芝居を観たり映画を観たりという、遊興三昧・・・(笑)。
偽りの仏門生活を目の当たりにして、子ども心に反感と失望を覚えるのは無理もありませんね。

そんな水上少年を支えたのが、瑞春院の仏間にあった“孔雀”の襖絵だったのです(そう、雁ではなく、孔雀だったのです)。
仲睦まじい孔雀の母子絵に若狭にいる母を思い、涙したといいます。

雁の寺04735
〈相国寺の西門。瑞春院はこの門を入ってすぐ左。右は同志社大学〉

その後、紫野中学校(現在の紫野高校ですが、当時は禅門立の学校で、禅僧になる徒弟の通う学校でした)へと進学しますが、住職に中学の制服も買ってもらえず、ひとり小学校時代の半ズボンで登校していたのだとか。
学校をさぼり、近くの船岡山で弁当を食って時間をつぶしたことも一度や二度ではなかったはずです。
耐えきれず、何度か八条坊城の叔父の家に逃げ込みますが、そのたびに諭され、寺に戻ります。が、13歳の時、本気で瑞春院を飛び出します。

結局、その後は同じ相国寺塔頭の玉龍院に一旦預けられ、さらに衣笠山の麓の等持院(相国寺と同じ臨済宗ですが、等持院は天龍寺派です)へ移り、僧名も承弁と改め、花園中学3年に編入しました。
ちなみに、玉龍院は瑞春院の法類にあたり、辛い目に遭っていた水上少年をいつも不憫に思っていた坂根良谷住職が匿ってくれ、瑞春院の山盛住職とは違い優しかったそうです。

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〈相国寺の山内。中には12の塔頭がある〉



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雁の寺 その3

2010年10月29日 00:32

「雁の寺」は『別冊文藝春秋』75号に掲載され、水上勉はこの作品で第45回直木賞を受賞します。
第42回の「霧と影」(1959年)、第43回の「海の牙」「耳」(1960年)につづく、3度目のノミネートで、ほぼ満票でした。
「霧と影」では日本共産党のトラック部隊が絡んだ繊研事業部事件を、「海の牙」では水俣病を題材に描き、
社会派推理作家としての地位が定着しつつあった時点での「雁の寺」の発表でした。

ただ、この小説、小僧時代の哀れだった自分のための意趣返し的意味合いの強い作品でもあったのでしょうが・・・、慈念の不気味さと無機質さが強調されているばかりで、これほど好評な理由がいまいち自分にはわかりません・・・。
むしろ、多くのエッセイで水上が書いている小僧時代の思い出の方が、より陰険で、辛く、どれだけ惨めだったかがよくわかるのです。

捨吉という自分の名前を嫌いながらも、まさか自分のほんとうの母親が乞食だったとは知らない慈念。
水上と同じく、口減らしのための仏門入りなのですが、まあ、容姿の異形はともかく、それほど修行生活が厳しかったようには伝わってはきません。
果たして、自分の師匠と後からやってきた内妻との愛欲生活が、小僧の慈念に殺意を抱かせるほどの嫌悪をもたらしたかどうかは、文中からは到底推し量ることができないのです。

孤独な京都での生活。中学での教練を嫌悪し、師匠に黙ってズル休みをする。
そんな辛い日課のあいまに描いた夢が「時間さえうまくやれば葬式の棺桶に死体を詰めて殺人ができるという思いつき」。
空想というにもあまりに空々しい夢が、現実へと向かうきっかけは、里子に犯された夜からということになるのでしょうが・・・。
「慈念はいい知れぬ里子への憎悪と愛着の混濁した衝撃に打ちのめされたのである。甘美な陶酔のあとに慈念を襲ったのは慈海へのはげしい憎悪のほかには何もなかった」という小説後半の説明だけでは、論理も感情も大きく飛躍する慈念という存在の奇怪さしか伝わってこないのですよねえ・・・。

ただし、淡々とした犯罪とは対照的に描かれる母親雁の襖絵を指を突込んで破り取るシーン。ここが唯一、慈念が人としての感情をあらわにした場面として印象的です。たとえそれが絶望の感情であったとしても・・・。
そして、「和尚さんのゆかはったとこを旅しますワ」と言って姿を消す慈念。
さらに、破り取られた襖絵と慈念の不在から、慈海の失踪は慈念と深く関係があることを悟る里子の恐怖・・・。推理小説の域を超えた文学作品へと飛翔していることは素人目にもわかります。



さて、水上勉が小僧時代を過ごした瑞春院。今では“雁の寺”として特別拝観の季節には多くの人が訪れるようです(普段は非公開です)。

雁の寺04739
〈水琴窟も有名だそうです〉

この寺での体験が小説「雁の寺」のモチーフではありますが、先にも述べたように、水上少年が目にしていたのは仏間にある「孔雀」の襖絵(今尾景年(1845~1924)作)でした。
それを雁に見立てて小説に仕上げたのですが、直木賞の受賞後、映画「雁の寺」(1962年、大映京都)を制作するにあたり、川島雄三監督と瑞春院を訪れた際、「雁」の襖絵と出会うことになるのです。
実は、小僧であった水上少年が立ち入ることの許されなかった仏間の向こう、上間の間の襖絵が「雁」だったのです。筆は「孔雀」の作者・今尾景年の弟子である上田萬秋(1869~1952)によるものでした。この奇妙な符号に水上もたいそう驚いたそうですよ。

雁の寺04741






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