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闇の土蜘蛛事件 その1

2014年01月06日 22:00

38年前の1976(昭和51)年1月6日未明、平安神宮が焼け崩れました。

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その年、200万人以上の初詣客で賑わった本殿・内拝殿など9棟が焼失し、かろうじて大極殿は延焼をまぬがれました。消防車40台が出動した前代未聞の大火災だったのです。

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当初は火鉢の残り火の不始末とみられ、発見の遅れや消火設備の不備などが指摘され、宮司をはじめ神宮側が責められるかわいそうな展開になるのですが、この大火災を起こしたのは、この後、爆弾男として数々のテロを行い全国に指名手配されることとなる加藤三郎という人物。
アイヌ解放などを主張して1976(昭和51)年から1977(昭和52)年にかけて神社仏閣、企業を狙った爆弾事件を起こしつづけます。大和王権に恭順しなかった古代豪族の蔑称「闇の土蜘蛛」や「浮穴媛のこどもたち」「大地の豚」など、奇矯で土俗的、民俗的な組織名を騙って・・・。


なお、この平安神宮放火事件の前日(5日)朝には、京都府警川端署の捜査員20名が、本殿で第一勧銀強奪事件の犯人逮捕の祈願を受けていました。
「そろっておはらいを受けた本殿できょう現場検証することになろうとは…」とは当時の刑事課長のコメントです。
ちなみに第一勧銀強奪事件とは、百万遍南西角にあった第一勧銀で1975(昭和50)年7月8日に起きた事件で、集金帰りの男女行員2名が3、4人の男に鉄棒のようなもので殴打され、現金5,300万円を強奪されたのでした。平安神宮での祈願の甲斐もなく、この強奪事件は結局、未解決のまま時効を迎えています。


さて、加藤三郎は岐阜県に生まれ、高校生の頃から小田実の「べ平連」に影響を受け、徐々に反日思想に傾倒していきます。
初めは、蝦夷やアイヌモリシを侵略した坂上田村麻呂や明治天皇に憤慨し、関連する施設にペンキで落書きをするペンキゲリラ闘争を行うものの、この行動自体がほとんどマスメディアにも相手にされず、だんだん行動がエスカレートしていきました。

その最初の大事件が、「蝦夷の人々を虐殺した桓武天皇を祭神として祀ることは神への冒涜」との一方的な思い込みから起こした平安神宮放火事件だったのですが、事件後、加藤は「世界赤軍日本人部隊・闇の土蜘蛛」名義で犯行声明をマスコミに送るも、これも相手にされず、いよいよ過激な爆弾闘争に身をやつすのでした。

平安神宮放火事件の翌年、1977(昭和52)年1月1日には京都御苑東側にある梨木神社で爆破事件を起こします。この時仕掛けられたのは消火器爆弾で、本殿の一部を破損するだけに被害はとどまりました。

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この事件は、元日に、しかも明治維新に活躍した三条実万、実美親子が祀られている神社が狙われたことから、当初より極左グループによる爆弾闘争の線が疑われました。この時、加藤は「闇の土蜘蛛」「浮穴媛のこどもたち」名義の犯行声明をマスコミに送付しています。

さらに、東急観光爆破事件(同年2月21日)、東大法文1号館爆破事件(同年5月2日)、三井アルミ社長宅爆破事件(同年6月30日)、神社本庁爆破事件(同年10月27日)と行動を起こすも、

標的とした東大に対しては「日本国家の侵略・抑圧・搾取などを正当化する精神的支柱で、現在も演習林の名目でアイヌモシリを侵略している」との因縁から、また三井アルミに対しては、アマゾン川流域のアルミニウム事業に積極的に関わってきた同社を、「日本のアマゾン侵略と先住民インディオに対する迫害に加担している」と思い込んだ末での犯行など、どの対象をとってもトンデモな理屈の数々から過激な行動に走っています。



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闇の土蜘蛛事件 その2

2014年01月06日 22:03

そして、1977(昭和52)年11月2日夕方には東本願寺の大師堂(現在の御影堂)で爆破事件を起こします。

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当時、東本願寺の真宗大谷派は「お東紛争」と呼ばれる教団を二分する内部紛争の真っただ中。さらに徳川幕府の庇護を受けていた大谷派は、江戸から明治の代となり、新政府に叛意がないことを示すためにも積極的に北海道開拓に関わってきた教団としての歴史があり、「闇の土蜘蛛」を名乗る加藤の標的となったのです。

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この一連の放火、爆破テロで幸いだったのは、死者が一人も出なかったことくらいでしょうか。

加藤が最後に起こしたのは、1978(昭和53)年1月1日に東京板橋のアパートでの爆弾暴発事件でした。

この暴発事件は、明治神宮に仕掛けるつもりの“糞尿爆弾”を潜伏先のアパートで誤爆させ、自ら糞尿まみれになるという、お粗末さ(サイテーなやつです(苦笑))。

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この時の心境を東京地裁で行われた拘置理由開示の裁判で、「まったく絶望的な気持ちだった。西欧文明と闘って滅びたオーストラリアのタスマニア原住民や、アイヌ民族などのように、私も闘って死んでいくだけだと思っていた。侵略者・日本人としては生きていたくなかった」と語り、「誤爆で糞尿を浴びたことは、結果的には私にとって文字通り“ウン”を運んでくれた。二人(愛人で共犯者の太田早苗)で五、六ヵ月逃げているうちに、自分の革命闘争に疑問を持つようになり、爆弾闘争から離れた」などと、都合のいいことを言っております。

1983(昭和58)年5月18日、加藤は逮捕され、懲役18年の刑に服し、現在は故郷の岐阜県内で自給自足の生活を送っているのだとか。


釈放後の2005(平成17)年4月18日に、加藤は東本願寺へ謝罪に訪れましたが、かつて彼が爆破しようとした親鸞聖人を祀る「大師堂」が「御影堂」と名を変えていたのも、なんとも皮肉です。

というのも、1981年に真宗大谷派は、宗憲(宗派の憲法)を改定し、1876(明治9)年に天皇から親鸞聖人へ賜った諡号「見真大師」の名称を削除し、同時に大師堂の呼称も、御影堂へと戻してしまったのです(ちなみに、もう一つの真宗の大教団である西本願寺こと、浄土真宗本願寺派も宗制を改正し、2008年より「見真大師」の大師号を削除しています)。
真宗教団が一様に“左”とも揶揄されることに通底するこの話題は、かなり深い話にならざるを得ませんので、いったんこのあたりで・・・。





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