方広寺 大仏殿 その1

2011年01月20日 01:02

五條楽園の南端を東西に走る通りは正面通。そして五條楽園を南北に貫く高瀬川には「正面橋」が架かっています。

20101230050907bbe[1] 〈高瀬川の正面橋〉

正面橋を東に向かうと、任天堂発祥の地があり、鴨川に出るとそこにも「正面橋」が架かっています。

20101230050908237[1] 〈鴨川の正面橋〉

川端通りを横切り、さらに東へと向かいます。小さな商店街風の町並みを通り過ぎると、

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いきなり大きな通りがあらわれ、その先にあるのが豊国神社です。

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といっても、通り名の由来は豊国神社の正面という意味ではなく、かつてこの場所にあった方広寺大仏殿の正面ということから名付けられました。

20101230050908b40[1] 〈豊国神社〉



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大仏殿方広寺は、後陽成院御宇天正六年、豊臣秀吉公の御建立なり。本尊は廬舎那仏の坐像、御丈六丈三尺。仏殿は西向にして、東西廿七間南北は四十五間なり。楼門には金剛力士の大像を置、長は壹丈四尺なり。門の内には高麗犬あり、金色にして長七尺。〔これは豊国のやしろにありしといふ〕廻廊は南北百廿間東西百間なり。堂前に建る石灯籠には列国諸侯の名を刻む、仏殿の敷石又正面石垣の大石には国々出所の名或は諸侯の紋所等あり、廻廊の外には桜紅葉を交へて植ゑたり。慶長七年十二月四日には仏殿回禄す、同十五年右大臣秀頼公ことごとく再営ある。寛文二年本尊銅像を改て木像とし給ふ。太閤秀吉公の石塔婆は仏殿の南にあり、豊国崩れて後これを営しといふ。塔前の石灯籠には慶長十年九月とあり。
撞鐘堂は南廻廊の外にあり、四間四方にして柱の数は十二本なり。鐘の高さ壹丈四尺、指わたしは九尺二寸、厚さ壹尺。
〈『都名所図会』(安永9(1780)年刊行)より 大仏殿〉




方広寺 大仏殿 その2

2011年01月20日 01:07

天正14(1586)年、天下を統一した豊臣秀吉の命により奈良東大寺を凌ぐ大仏殿の造営が開始されます。造営の際、物資輸送ために掘削されたのが高瀬川で、文禄4(1595)年に大仏殿は完成しました。

大仏殿は高さ約49メートル、東西廿七間(約54メートル)、南北四十五間(約88メートル)という壮大なもので、境内は現在の方広寺、豊国神社、京都国立博物館を含むものであったと伝えられています(2000年の発掘調査で東西約55メートル、南北約90メートルの規模であったことが判明しています)。

大仏殿の中には、高さ六丈三尺(約19メートル)の木製金漆塗坐像大仏が安置されますが(奈良の東大寺大仏は高さ約14.7メートルです)、慶長元(1596)年に起きた大地震で、開眼前の大仏が倒壊します。 さらに不幸は重なり、慶長3(1598)年には秀吉が法開眼要を待たずに逝去し、同年、大仏のない大仏殿で開眼法要が行われたそうです。

子の秀頼が倒壊した大仏の再建を試みますが、慶長7(1602)年、鋳物師の過失により出火し、建造中であった銅製の大仏そのものが溶解。しかもその時、大仏殿も炎上してしまいます。

しかし、秀頼は豊臣家の名誉にかけてこの事業を諦めません。懲りずに慶長15(1610)年から再建に着手し、慶長19(1614)年に大仏殿と銅製の大仏がようやく完成しました。

ところが・・・、慶長19年4月、大仏殿の落慶にあたり梵鐘が完成し、落慶法要を行おうとしたところ、梵鐘の銘文について徳川幕府から異議が唱えられ、法要は延期されます。

20101230050759a2e[1] 〈方広寺の梵鐘〉

梵鐘にあった銘文の中の“国家安康”“君臣豊楽”の文言が、家康の諱を分断し、豊臣家の繁栄を願うという徳川家に対する呪詛であるとの言いがかりをつけられたのです。これが豊臣家滅亡に繋がる「大坂の役」の原因となった「方広寺鐘銘事件」です。

2010123005090882f[1] 〈梵鐘の銘文〉

ちなみに、現存する梵鐘は当時のもので、徳川幕府によって潰されることはありませんでした。重要文化財として、東大寺、知恩院の梵鐘とあわせて、日本三大名鐘のひとつとなっています(現在、方広寺は豊国神社の北にありますが、見るべきものといえばこの鐘くらいなものです)。

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大仏殿および大仏の再三の造営頓挫によって、栄華を極めていたはずの豊臣家は莫大にあった資金を減らし、さらには徳川の怒りを買う鐘銘事件を引き起こし・・・、見栄を張ったばかりに、まったくもって災厄でしたね。
まあ、ひるがえってみると、徳川幕府にとっては、大仏のご加護とも言えますが(苦笑)。


さて、その後の大仏ですが・・・、

寛文2(1662)年の地震で大仏は破損し、木造で造り直されます(壊れた大仏の銅は寛永通宝の鋳造に使われたのだとか)。

さらに、寛政10(1798)年7月には大仏殿が落雷を受け、大仏のほかに本堂・楼門も焼失しました。
「京の 京の 大仏つぁんは 天火(てんび)で焼けてなぁ 三十三間堂が焼け残った ありゃ ドンドンドン こりゃ ドンドンドン」という童歌は、この時の火災のことを歌っています。

江戸後期の天保年間には、旧大仏を縮小した肩より上だけの木造の大仏と仮殿が有志により寄進されますが、それも昭和48(1973)年3月28日深夜の火災によって焼失しました。それ以降は、造られることなく現在に至っています。




方広寺 大仏殿 その3

2011年01月20日 01:14

かつての方広寺大仏殿のあった場所に建つ豊国神社の変遷ですが・・・、

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秀吉は亡くなった翌年(慶長4(1599)年)に方広寺近くの東山・阿弥陀ヶ峰に埋葬され、その麓に建立された廟所が豊国神社の起源となっています。その時、後陽成天皇から正一位と豊国大明神の神号が贈られ、当初は社領1万石、境内域30万坪をも誇る壮麗な神社でありました。

ところが、元和元(1615)年に豊臣家が滅亡すると徳川幕府は神号を廃止し、社領を没収します。ご神体は新日吉神宮に移されます。

さらに時代は流れ、明治になって天皇が大阪に行幸したとき、豊臣秀吉を尊皇の功臣であるとして豊国神社の再興を決定します。明治6(1873)年に別格官幣社に列し、明治13(1880)年には方広寺大仏殿跡である現在の地に社殿が完成したのです。

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少々、余談を。

「かごめかごめ」という子供遊びがありますね。そう、「かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に 鶴と亀がすべった 後ろの正面だあれ」という歌のアレです。

この不可解な歌詞をめぐっては、徳川埋蔵金のありかを示す暗号だとか、遊女の悲哀をあらわした歌だとか、堕胎された子の怨念を歌ったものだとか、都市伝説めいた様々な言い伝えがあります。

その中の一つに、豊国神社をうたったものだとする説もあるのです。
「正面」とはまさに「正面通」の行き着く先、方広寺とさらにその東にある秀吉の廟所を指すというのです。
徳川家康を神格化するためには、秀吉が神のままでは都合が悪く、徳川幕府は秀吉の神号を廃止し、社領を没収します。その時、豊国廟を掘り返し、秀吉の棺を取り出します。さらに秀吉の遺体を、当時の庶民と同じ屈葬にして甕棺に収め直すほど、幕府の行為は徹底していました。「かごめ」の部分が「屈め(かがめ)」と読み取ることができ、この秀吉の屈葬をあらわしているというのです。

とはいえ、歌詞の「後ろの正面だあれ」の部分は明治になって付け加えられたものらしいので、この説は残念ながらこじつけなのでしょう。

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〈豊国神社から見る正面通〉



耳塚

2011年02月23日 00:47

耳塚(鼻塚)は豊臣秀吉の遺構の一つです。


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16世紀末、天下を統一した秀吉は、朝鮮半島に目を向けます。文禄の役(1592年~1593年)・慶長の役(1597~1598)といわれる朝鮮侵攻へ乗り出したのです。
海を渡った武将たちは、戦功のしるしである首級のかわりに、朝鮮人の鼻や耳をそぎ、塩漬けにして日本に持ち帰り、自らの武功の証としました(ひどい話です)。
その耳や鼻を秀吉の命により埋めて供養したのが、この耳塚(鼻塚)なのです。


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「都名所図会」の方広寺大仏殿の項にも右下に描かれているのがわかるでしょうか。

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耳塚は二王門の前にあり、文禄元年朝鮮征伐の時、小西摂津守加藤肥後守を大将として数万の軍兵を討取、首を日本へわたさん事益なければみゝきりはなきりして送り、此所に埋、耳塚といふ。
〈『都名所図会』(安永9(1780)年刊行)より 耳塚〉


現在は豊国神社の前に「耳塚公園」という児童公園があり、その西に五輪塔を上に建てた円い大きな土盛りが耳塚です。
まさか、鼻まで埋められているとは知りませんでした。といっても、特におどろおどろしい雰囲気はなく、まわりは普通の民家が連なっています。


201012300625136fc[1] 〈耳塚公園〉