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伊東忠太の手がけた京都の建築物 その3

2011年04月26日 23:56

豊国廟(1898(明治31)年竣工)

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平安神宮の成果もあって、1896(明治29)年には豊公会(豊臣秀吉の奉賛会)より阿弥陀ヶ峰に建設される太閤廟(豊国廟)の建築工事監督を伊東忠太は任せられます。
これは秀吉の没後三百年を記念した「豊公三百年祭」の一大記念事業でもありました。
そして1898(明治31)年に豊国廟は完成。伊東は考案と設計、さらに監督として携わり・・・、伊東は長い石段の先、頂上にある巨大な五輪塔の設計を行ったとされていますが、この建築に関しても、伊東の本来の力量は発揮されていません(というか、発揮しようもありません)。

秀吉時代の一般的な墓が五輪塔だったので、このデザインを採用したようですが・・・意匠的には全く面白みのない、単なるフツーの巨大な五輪塔が頂上にそびえているだけです。

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〈東大路通り沿いに建つ豊国廟参道の巨大な石碑〉

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〈京都女子大学で有名な“女坂”を登るとこの鳥居があります〉

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〈太閤坦(たいこうだいら)と呼ばれる広場。もともとは阿弥陀ヶ峰の中腹であるこの地に秀吉の墓と豊国神社がありましたが、1615(元和元)年の豊臣家滅亡と共に、徳川幕府は神号を廃止し、社領を没収します。ご神体は新日吉神宮に移されました〉

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〈この石段より先は有料となり、大人は50円、小中学生は30円という、何とも微妙な金額の志納登拝料を払わなければなりません〉

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〈先の見えない石段。石段は500段近くあるらしいですが・・・数えるのも面倒〉

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〈階段の中ほどにある唐門〉

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〈頂上にある五輪塔は高さ10メートルに及ぶ巨大なもの〉

新撰京都名所圖會 豊國廟
〈竹村俊則著『新撰京都名所圖會』第一巻(1958(昭和33)年刊行)より〉


当然ながら、平安神宮も豊国廟も、伊東にとっては単なる復元“作業”や依頼“作業”に過ぎず、独自の建築美意識を発揮するには至っていません。
伊東忠太はこの後、台湾神宮(1901年)などを設計しますが、伊東本来の本領が発揮されるのは、もう少し後のこと。

1902(明治35)年から1905(明治38)年にかけて、中国・ビルマ・インド・エジプト・トルコ・欧米を伊東は歴遊します。
これは当時、大学教授になるためには留学経験のあることが慣例となっていたためで、当時すでに助教授の職にあった伊東は、留学を拡大解釈し、これらの国々を巡ることにしたのです。
そして、その中で、後のパトロンとなる大谷光瑞との出会いのきっかけを掴み、はたまた、中国では雲岡石窟を発見したりして・・・。

帰国後、西洋建築にアジア風や日本のデザインを織り込んだ独自の斬新な建築物を数々設計していくのです。


ちなみに・・・五輪塔の設計も建築家の仕事?・・・と思っていましたら、武田五一は東本願寺前の噴水(1914年)を設計しておりました(笑)。

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伊東忠太の手がけた京都の建築物 その5

2011年04月29日 02:19

大谷光瑞と並んで、伊東忠太のパトロンとして有名なのが、大倉喜八郎でした。
大倉喜八郎(1837(天保8)年―1928(昭和3)年)は、戊辰戦争から日清、日露戦争と政府に取り入り戦争特需で大儲けし、大倉財閥を一代で築いた傑物です。大倉財閥の系譜に連なる現在の企業としては帝国ホテル、大成建設、ホテルオークラなどがあります。

大倉喜八郎 〈大倉喜八郎〉

伊東忠太が携わった大倉関連の建築では、1927年に竣工した「大倉集古館」「祇園閣」「大倉喜八郎京都別邸」等があり、それ以前にも私邸の門や葬儀場の設計を依頼されたようですが、実現には至りませんでした。

伊東と大倉喜八郎との関係は、そもそも大倉の息子である喜三郎が帝国大学工科大学で伊東の一年後輩だったという縁から。「一九一二年の大倉向島別邸の建設の際に、片山東熊や妻木頼黄とともに相談を受けたことに始まった」(鈴木博之編『伊東忠太を知っていますか』2003年、王国社刊 より)ようです。



祇園閣(1928(昭和3)年竣工)

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現在、京都東山にある大雲院となっている地は、もともと大倉喜八郎の別邸「真葛荘」で、敷地内に建築された3階建ての建物がこの祇園閣です。

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〈竹村俊則著『新撰京都名所圖會』第一巻(1958(昭和33)年刊行)より〉


ある日、伊東は大倉喜八郎に電話で呼び出されます。
そして大倉が言うには・・・、風雨に煽られた自分の傘が漏斗状に反転し、その形がおもしろかったので、その形を模して建築物を造ってほしい、とのことでした。
あっけにとられた伊東は、渋々ながらも数件の設計案を仕上げ、数日後に大倉の元に持参するも「格好が悪い」とあえなく却下。後日、伊東は再度、大倉に呼び出され今度は・・・祇園の鉾の形をそのまま建築化した建造物を造り、街を一望できる高閣として京都の名所にしたい、と要望してきたのです。そして完成したのが、祇園閣なのでした。

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現在、祇園閣や旧大倉家京都別邸(書院)を所有する大雲院は、浄土宗系の単立寺院。織田信長と信忠親子の菩提を弔うため1587(天正15)年に烏丸二条で創建されました。その後、秀吉の都市計画整備で寺町通りに移転し、さらに近年になってデパート高島屋の増床に伴い、1972(昭和47)年に現在地へと移転してきたのです。

新撰京都名所圖會 大雲院1新撰京都名所圖會 大雲院2
〈竹村俊則著『新撰京都名所圖會』第四巻(1962(昭和37)年刊行)より 四条河原町界隈にあった頃の大雲院〉


銅板葺きの屋根は、金閣、銀閣に次ぐ銅閣とするべく大倉が指示した、ともいわれています。
また、鉾の頂と、昇降口施用面銅扉の左右に施された鶴は、大倉喜八郎の幼名・鶴吉と号・鶴彦にちなんで“鶴”が形作られているのです。

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特異な造型の祇園閣ですが、今や東山の風景にはなくてはならない建物となっています。



新撰京都名所圖會 その1

2011年05月03日 01:48

新撰京都名所圖會 著者・竹村俊則

江戸後期に大ベストセラーとなった『都名所図会』『拾遺都名所図会』から180年後、昭和の世にも「名所図会」の名著が現れます。

それが『新撰京都名所圖會』全七巻です。

R0010023.jpg 〈『新撰京都名所圖會』全七巻(白川書院刊行)〉

先駆の『都名所図会』を範としながらも、町の様変わりが目に付きはじめる昭和30年代の京都を舞台に、克明に町の姿を写し取った新たな「名所図会」の誕生でした。町に散らばる寺社や旧跡を緻密な鳥瞰図に著し、詳しい解説を付けたそれは、郷土史資料としても江戸期の名所図会に変わらぬ重要な位置づけに、本来ならあるべきなのでしょう。

著者・竹村俊則は挿画も自ら手がけ、1958(昭和33)年から白川書院によって順次刊行を開始。7年後の1965(昭和40)年に完成をみました。


巻一  東山  1958(昭和33)年

新撰京都名所圖會 巻一 三條白川橋 〈三條白川橋〉


巻二  西北部  1959(昭和34)年

新撰京都名所圖會 巻二 嵐山 〈嵐山〉


巻三  洛中1  1961(昭和36)年

新撰京都名所圖會 巻三 立命館大学 〈立命館大学〉


巻四  洛中2  1962(昭和37)年

新撰京都名所圖會 巻四 四條大宮 〈四條大宮〉


巻五  洛南1  1963(昭和38)年

新撰京都名所圖會 巻五 桃山御陵 〈桃山御陵〉


巻六  洛南2  1965(昭和40)年

新撰京都名所圖會 巻六 三室戸寺 〈三室戸寺〉


巻七  索引  1965(昭和40)年


各巻の序文も名だたる文化人・学者が文章を寄せています。第一巻には新村出、第二巻には吉井勇、第三巻は中村直勝(元三高教授、京都女子大教授の日本史学家)、第四巻は野間光辰(京大教授の国文学者)、第六巻は瀧川政次郎(國學院大學教授の法学者)。特に新村出と吉井勇が序文を書いているのは刮目です。



新撰京都名所圖會 その2

2011年05月03日 01:49

『新撰京都名所圖會』の「あとがき」を中心に、完成にいたる経緯を見てみましょう。

筆者・竹村俊則(1915(大正4)年―1999(平成11)年)は、京都生まれの京都育ち。京都市立商業実修学校卒業。

執筆の動機となる『都名所圖會』との出会いを「古本屋の店頭で同書を手にしたのはまだ十四・五才ごろのことであつたが、子供心にもいたく感銘をうけ、これと同じような昭和時代の京都をえがいた新しい名所圖會があれば、今昔對照ができて、さぞ楽しいことであろうと思つた」といい、特に竹原春朝斎の描く鳥瞰図の挿絵に大きな感銘を受けたようです。

また、他に影響を受けた作品として特記しているのが、吉田初三郎の「京都交通名所圖會」(1928(昭和3)年、4枚綴り)。これは表面に色彩豊かな図会が描かれ、裏面に京都案内が掲載されている逸品です。

京都交通名所圖會 洛東
〈京都交通名所圖會 洛東〉

吉田初三郎(1884年―1955年)は大正から昭和にかけて活躍した鳥瞰図絵師で、彼の処女作「京阪電車御案内」(1914年)は修学旅行で京阪電車に搭乗した皇太子時代の昭和天皇にたいそう褒められたというエピソードを持つ人物でした。

竹村の在学中に昭和御大典(即位の礼)があり、学習用に頒布された「京都交通名所圖會」の圖帳に探求心をそそられ、さらに高山樗牛の「滝口入道」を読んで感動し、鳥羽の恋塚や嵯峨の祇王寺、滝口寺址などを訪ねたことが史蹟探訪の始まりだったのだとか。

新撰京都名所圖會 巻二 祇王寺 滝口寺
〈祇王寺 滝口寺(『新撰京都名所圖會』巻二) 史蹟探訪のきっかけともなった「滝口入道」ゆかりの祇王寺、滝口寺も、もちろん掲載されています〉

そして竹村が本格的に郷土史研究に身を入れるようになるのは、戦後。京都の有名な郷土史家であった田中緑紅(1891年―1969年)に師事し、1952(昭和27)年には帝大出身の古代史研究家・藪田嘉一郎(1905年―1976年)と「京都史蹟研究會」を創立。地道に実地研究を重ねてきた歳月が、後の『新撰京都名所圖會』執筆作業に活かされるのです。

いつしか自らの「名所図会」を出版したいとの構想を持ち続けていた竹村でしたが、無名に近い一介の郷土史家に出版を任せてくれる奇特な出版社は、そうありません。
そこで自費出版として出すことを決意し、京都府庁での役人生活をやめ一攫千金を狙って事業界へと身を転じたようです。が、事業は失敗。

そんな時に、詩人であり白川書院(後に廃業し、現在の白川書院とは別組織)を主宰していた臼井喜之介(1913年―1974年)の編集する観光趣味雑誌『東京と京都』に原稿執筆の依頼を受けたのです。かねてから思い描いていた「名所図会」の下書きをしてみようと軽い気持ちで掲載を請け負ったことが、後の大著『新撰京都名所圖會』へと繋がります。第一回掲載は1957(昭和32)年5月発行の『東京と京都』6月号でした。

新撰京都名所圖會 巻四 河原町三条
〈河原町三条(『新撰京都名所圖會』巻四)〉



新撰京都名所圖會 その3

2011年05月03日 01:50

『新撰京都名所圖會』の制作は画・文ともに竹村俊則が単独での執筆で、1957(昭和32)年4月から1964(昭和39)年10月にわたる7年6ヶ月間に及びました。これは当初の計画5ヵ年を遥かにオーバーし、途中から執筆に熱が入りすぎたことと、健康を害したことが遅れた理由だったようです。

従来の名所案内記の「小さな社寺はもとより史蹟・傳説、古墳をはじめ、年中行事・風俗習慣・名物名産・新らしい産業文化施設等にわたつてくわしくしるされたものはきわめて少なかつた」ことを不満とし、地方人よりもむしろ京都人を対象とした「郷土史的な案内書」とするべく執筆には留意したとのこと。
そして、掲載されている鳥瞰図は『都名所図会』(1780(安永9)年刊行)と同一角度から描くという粋な計らいが施されています(少し画が小さいのが残念ですが・・・)。

挿入される鳥瞰図や絵は400点に及ぶ膨大な数ですが、この緻密さにも目を奪われます。同志社大学の画は縦80センチ、横110センチに及ぶ画用紙に、実地下検分から作画完成までに二週間を費やしたそうで、府立医大や立命館大も各一週間かかったのだとか。

新撰京都名所圖會 巻三 同志社大学
〈同志社大学(『新撰京都名所圖會』巻三)〉

洛中の項目の制作秘話として、小路・横丁をしらみつぶしに廻るため自転車を用い、繁華街のスケッチは交通事情を考慮し早朝に行ったこと。社寺建築よりビル建築、特にゴシック建築が画として描きにくかったこと。そして鳥瞰図を描くにあたり、屋上にどのような構造物があるのか、地上からではわかりにくいのにも閉口したことを挙げています。

新撰京都名所圖會 巻四 烏丸三条
〈烏丸三條(『新撰京都名所圖會』巻四)〉

当時の白川書院もなくなり『新撰京都名所圖會』も絶版となっていましたが、1980年から『新撰京都名所圖會』を改訂加筆した『昭和京都名所圖會』(全七巻)が順次刊行されることとなります(1989年に完成)。出版元は京都を代表する大型書店・駸々堂。しかし、その駸々堂も2000年には倒産し、『昭和名所圖會』もまた絶版となり・・・。

R0010016.jpg 〈『昭和京都名所圖會』(全七巻)駸々堂出版〉

『昭和京都名所圖會』は洛東上、洛東下、洛北、洛西、洛中、洛南、南山城の全七巻からなっていて、推薦の帯文は、林屋辰三郎(当時、京都国立博物館館長)。
1957年に雑誌に連載し始めた頃は、単行本になることを想定しておらず、最初に書き出した東山方面の内容を簡略にしたまま『新撰京都名所圖會』を出版したことが、竹村にとっては心残りでもあったのでしょう。
新しく出した『昭和京都名所圖會』では、洛東に関して二巻に分けるほどの大幅な加筆がなされています。
さらに全編にわたって町の変化に応じ前作を加筆修正していますが・・・、前作のもつ魅力はまったくもって半減してしまいました。前作は昭和30年代という、古き町並みが新しく変わろうとしている姿も含めて興味深かったわけで、この焼き直しは必要なかったような・・・。


『新撰京都名所圖會』の本の帯には『都名所図会』を意識して「百年間のベストセラー」と銘打たれ、著者の竹村俊則も「どうかこの本を大切にして子孫につたえていたゞきたい。本書が眞に利用されるのは、百年二百年後にあると思うからである」と語っていますが・・・出版から五十年。執筆当時に竹村が思い描いたよりも早く、この町は変貌を遂げてしまったようです。

高度経済成長は町の姿を大きく変え、特に洛中の名所旧跡は今やビルの谷間に埋もれ、もう鳥瞰図で表すこともできそうにありません。

おそらく現代の京都の町並みを見るとき、もう平成以降の「名所図会」を作ろうとする人もいないでしょうし、町としての魅力をなくしてしまった現在の京都の姿を残す必要もないのかもしれません。

新撰京都名所圖會 巻四 革堂 下御霊社 
〈革堂 下御霊社(『新撰京都名所圖會』巻四)〉 

しかし・・・、古い建物の中にちらほらとビルが建ちつつあった昭和30年代。京都の町が最も激しく移り変わろうとしていた、“一番おもしろい時代”“町の成長期”を切り取った「名所図会」。この名著『新撰京都名所圖會』を復刊して、郷土史の資料としてだけではなく、現代の町並みと比較して気軽にノスタルジーに浸れるくらいの余地は、あってもいいと思うのですがねえ・・・(まっ、需要もないでしょうし、出版不況にあえぐ中で再刊しようという奇特な出版社もないのでしょうが(苦笑))。


新撰京都名所圖會 巻三 護王神社 【車や市電】
〈護王神社(『新撰京都名所圖會』巻三)より 図会の道にはいたるところに懐かしい市電や、時代を感じさせるボンネットバス、レトロな自動車が走っています〉

新撰京都名所圖會 巻二 宇多野ユースホステル
〈宇多野ユースホステル(『新撰京都名所圖會』巻二)より 上空には戦闘機が二機も(笑)。『新撰京都名所圖會』には、空の空白の寂しさを埋めるように、意味もなく数々の飛行機が描かれていましたが、『昭和京都名所圖會』では、ことごとく、その遊び心も消されてしまっているのが残念〉

新撰京都名所圖會 巻三 岩神祠
〈岩神祠(『新撰京都名所圖會』巻三)より サザエさんとワカメちゃんも特別出演です!〉





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