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伊東忠太の手がけた京都の建築物 その1

2011年04月24日 23:42

伊東忠太の手がけた京都の建築物


太平洋戦争での大きな戦災を免れたこともあって、京都には多くの近代建造物が今も残っています。

京都帝国大学建築学科の初代教授で“関西建築界の父”と呼ばれた武田五一(1872年―1938年)は、京都府立図書館(1909年)、京都大学時計台(1925年)、京都市役所(1927年~1931年、中野進一との共同)、旧毎日新聞社京都支局(1928年)、河合橋(1918年)、葵橋(1918年)、賀茂大橋(1931年)・・・、

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〈京都市役所(1927年~1931年)〉

アメリカの建築家であるウィリアム・メレル・ヴォーリズ(1880年―1964年)は、同志社大学啓明館(1920年)、東華菜館(旧・八尾政、1926年)、大丸ヴィラ(1934年)、同志社大学アーモスト館(1936年)・・・、

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〈東華菜館(旧・八尾政、1926年)〉

逓信省に入省した建築家の吉田鉄郎(1894年―1956年)は、旧京都中央電話局上京分局(1924年)、京都中央電話局(現・新風館、1926年)など逓信建築を中心に設計しています。

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〈旧京都中央電話局上京分局(1924年)〉


当時の近代建築物は一様に、ルネッサンス様式やゴシック様式といった西洋建築がもてはやされた時代でした。


そしてこれらと同じ時代に造られた京都の建造物の中でも、異質さにおいて一際目を引くのが・・・西本願寺伝道院(旧・真宗信徒生命保険株式会社本社屋、1912年)と祇園閣(1927年)の二つの建物です。

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〈伝道院(旧・真宗信徒生命保険株式会社、1912年)と祇園閣(1927年)〉

西本願寺の厳かで古めかしい仏具屋が並ぶ門前に突如として現れる異質な建造物。西本願寺伝道院は、西洋建築一辺倒だった明治から大正期にかけて、あえてアジア建築の新風を取り入れた斬新な建築で、奇妙な外観を有しながらも異彩を放っているのです。

そして、祇園閣はといえば、これもまた東山の瀟洒で風光明媚なたたずまいに突如として現れる、天に突き刺す祇園祭の鉾のような珍妙な建造物で・・・。


このどちらもが明治から昭和にかけて活躍した建築家・伊東忠太(1867(慶応3)年―1954(昭和29)年)の設計によるものでした。

伊東忠太

これらエキセントリックな外観から、よほどユニークな建築家が建てた代物だとお思いの方もいるでしょうが・・・、伊東忠太の略歴をみると、

日本近代建築の父・辰野金吾に師事し、帝国大学工科大学大学院を卒業。のちには東京帝国大学名誉教授となり、1943(昭和18)年には建築界ではじめて文化勲章を受章。また建築家としてだけでなく、奈良の法隆寺を日本最古の寺院建築であることを学術的に証明した建築史家としても有名です。
主な建築作品には、明治神宮(1920年)、大倉集古館(1927年)、一橋大学兼松講堂(1927年)、震災祈念堂(現・東京都慰霊堂本堂)(1930年)、築地本願寺(1934年)など。

これほど順調に建築家としての王道を歩んだ人もそう、いないでしょう。日本を代表する建築の権威なのです。


そして、どちらの建築物の施主も、当時の日本における名士中の名士でした。
真宗信徒生命保険株式会社(現・西本願寺伝道院)を依頼したのは、西本願寺第二十二世法主・大谷光瑞。
祇園閣の施主は、大倉財閥の創始者・大倉喜八郎。
両名とも、伊東忠太の重要なパトロンでもあったのです。

新進気鋭の建築家と進取の気性に富んだ当代一の趣味人が揃ったからこそ、奇跡のような建築物が出来上がったのです。


それでは京都に残る伊東忠太設計の建造物を見ていきましょう。



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伊東忠太の手がけた京都の建築物 その2

2011年04月26日 01:36

平安神宮(1895(明治28)年竣工)

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そう、この平安神宮も伊東忠太の設計によるものです。しかも、20代半ばにして初の仕事が、こんな大仕事だなんて・・・。

京都では1895年に「第四回内国勧業博覧会」と「平安遷都千百年紀念祭」が開催されることとなり、その目玉事業として大内裏を復元する計画が持ち上がります。

そして、伊東が大学院で日本建築を研究をしていた1893(明治26)年、平安遷都記念祭協賛会より記念殿建築技師に任命されるのです。大学院の指導教官であった木子清敬(きこ・きよよし)の推薦による大抜擢でした。

とはいっても、大内裏の復元に自らの建築の理想をつぎ込む余地はありません。しかも予算の関係で当初予定されていた8分の5の規模に復元が縮小され、伊東にとっては満足のいく仕事ではなかったようで・・・。また、そもそも平安神宮は「平安遷都記念殿」と称する単なる模造大極殿として建築されようとしていたものが、のちに工事の途中で桓武天皇を祀る平安神宮へと変更になったという経緯もありました。

DSC00444 (2)_R 〈應天門(神門)〉

1895(明治28)年に平安神宮は完成。木子清敬、伊東忠太、佐々木岩次郎の三者による共同設計となっていますが、木子は顧問格の名誉職として名を連ねているに過ぎず、実質は伊東が理論的な設計を担い、佐々木が技術的な実地を担ったとされています。
伊東と佐々木はウマが合ったのでしょうか。この後も、豊国廟(1898年)、宮崎神宮旧徴古館(1907年)、浅野総一郎邸(1909年)、増上寺大殿(1925年)等で一緒に仕事をすることになります。

DSC01196_R.jpg 〈大極殿〉

ともかく、この平安神宮造築に伊東忠太は若くして考案・設計・監督として携わり、官僚や宮大工といった人脈を得て、エリート建築家としての道を歩むこととなるのです。

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〈蒼龍楼〉

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〈白虎楼〉

祭神は平安京に都を移した第50代桓武天皇の他に、京都に都があった最後天皇でもある第121代孝明天皇が1940(昭和15)年に加えられています。

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平安神宮は1976年(昭和51)年1月6日、放火により本殿・内拝殿など9棟が炎上し焼失。現在の社殿は1979(昭和54)年に全国からの募金により再建されたものです。
この放火事件については梨木神社爆破事件(1977年1月1日)や東本願寺爆破事件(1977年11月2日)など一連の“闇の土蜘蛛”事件として、後に知られることになるのですが・・・、この事件については、また機会のあるときにでも・・・。



伊東忠太の手がけた京都の建築物 その3

2011年04月26日 23:56

豊国廟(1898(明治31)年竣工)

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平安神宮の成果もあって、1896(明治29)年には豊公会(豊臣秀吉の奉賛会)より阿弥陀ヶ峰に建設される太閤廟(豊国廟)の建築工事監督を伊東忠太は任せられます。
これは秀吉の没後三百年を記念した「豊公三百年祭」の一大記念事業でもありました。
そして1898(明治31)年に豊国廟は完成。伊東は考案と設計、さらに監督として携わり・・・、伊東は長い石段の先、頂上にある巨大な五輪塔の設計を行ったとされていますが、この建築に関しても、伊東の本来の力量は発揮されていません(というか、発揮しようもありません)。

秀吉時代の一般的な墓が五輪塔だったので、このデザインを採用したようですが・・・意匠的には全く面白みのない、単なるフツーの巨大な五輪塔が頂上にそびえているだけです。

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〈東大路通り沿いに建つ豊国廟参道の巨大な石碑〉

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〈京都女子大学で有名な“女坂”を登るとこの鳥居があります〉

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〈太閤坦(たいこうだいら)と呼ばれる広場。もともとは阿弥陀ヶ峰の中腹であるこの地に秀吉の墓と豊国神社がありましたが、1615(元和元)年の豊臣家滅亡と共に、徳川幕府は神号を廃止し、社領を没収します。ご神体は新日吉神宮に移されました〉

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〈この石段より先は有料となり、大人は50円、小中学生は30円という、何とも微妙な金額の志納登拝料を払わなければなりません〉

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〈先の見えない石段。石段は500段近くあるらしいですが・・・数えるのも面倒〉

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〈階段の中ほどにある唐門〉

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〈頂上にある五輪塔は高さ10メートルに及ぶ巨大なもの〉

新撰京都名所圖會 豊國廟
〈竹村俊則著『新撰京都名所圖會』第一巻(1958(昭和33)年刊行)より〉


当然ながら、平安神宮も豊国廟も、伊東にとっては単なる復元“作業”や依頼“作業”に過ぎず、独自の建築美意識を発揮するには至っていません。
伊東忠太はこの後、台湾神宮(1901年)などを設計しますが、伊東本来の本領が発揮されるのは、もう少し後のこと。

1902(明治35)年から1905(明治38)年にかけて、中国・ビルマ・インド・エジプト・トルコ・欧米を伊東は歴遊します。
これは当時、大学教授になるためには留学経験のあることが慣例となっていたためで、当時すでに助教授の職にあった伊東は、留学を拡大解釈し、これらの国々を巡ることにしたのです。
そして、その中で、後のパトロンとなる大谷光瑞との出会いのきっかけを掴み、はたまた、中国では雲岡石窟を発見したりして・・・。

帰国後、西洋建築にアジア風や日本のデザインを織り込んだ独自の斬新な建築物を数々設計していくのです。


ちなみに・・・五輪塔の設計も建築家の仕事?・・・と思っていましたら、武田五一は東本願寺前の噴水(1914年)を設計しておりました(笑)。

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伊東忠太の手がけた京都の建築物 その4

2011年04月29日 02:17

伊東忠太は1902(明治35)年から1905(明治38)年にかけて、アジア・欧米を遊学します。
その時に、中国の貴州から雲南に入るあたりで大谷光瑞(1876(明治9)年―1948(昭和23)年)率いる大谷探検隊の一員である学生と偶然に遭遇していました。そんな縁から、伊東は帰国後、直接の面識はなかったものの法主となっていた大谷光瑞を西本願寺に訪ねるのです。その際、両者はたいそう意気投合し、当時計画されていた「大連別院」(中国)や、「鎮西別院」(門司)の設計を伊東は直接依頼されます。

大谷光瑞
〈西本願寺第二十二世法主・大谷光瑞〉

在來の日本式佛寺建築といふものは、その構へが大袈裟の割に實際に使つて不便極まる。(中略)佛寺だからといつても何も舊來の古くさい佛寺建築をそのまま墨守する必要はない。機會があつたら印度式の寺を造つて、在來の佛寺建築にみられたいろいろの缼點をなくしたいものだ。佛教は印度から發したものでもあるから、その建築を印度式にすることは、その源に還へることともなり、意味あることだと思ふ。
『建築学者 伊東忠太』著者・岸田日出刀 より

上記は伊東忠太の伝記(『建築学者 伊東忠太』著者・岸田日出刀、1945年、乾元社)からの引用による、大谷光瑞が伊東に語ったとされる言葉です。

そもそも大谷光瑞という人は、ロンドンに留学するなど、伝統教団の法主という立場にありながら先見性に富み、海外開教にもいち早く目を向けた人物でした。大谷探検隊などという莫大な費用と、途方もない行動力を有するシルクロード学術探検隊を組織し、自ら率いたことからも、その革新的な人間性は十分理解できるでしょう。

そして、建築の新分野を開拓しようと、その趣向をアジアに求めていた伊東忠太。二人の気質は自ずと合致していました。

しかし、これら別院の設計は檀家の反対に遭い、あえなく頓挫。伊東案ではない旧態依然の寺院建築案が採用されました。伊東の設計も、大谷光瑞の思いも当時の人々にとってはあまりに斬新すぎて理解できなかったのです。


それでも、1909年には伊東の設計による大谷光瑞の別荘・二楽荘が神戸六甲山で建造され(1932年に焼失)、1912年には真宗信徒生命保険株式会社(現・西本願寺伝道院)の本社屋が本山の門前に完成します。

二楽荘本館(1909(明治42)年竣工)

二楽荘

二楽荘の由来は「山を楽しみ、水を楽しむ」「山水を楽しみ、育英を楽しむ」。
インド様式の本館にはドームがそびえ、中はイギリス、インド、アラビア、エジプト各国をモチーフにした部屋や回廊式の書庫があったといわれています。
この本館のほかにも、敷地内には学校、測候所、宿泊施設があり、三本のケーブルカーが各施設をつないでいました。
大谷光瑞の失脚後(大谷探検隊等の多額の出費で教団の財政が傾き、法主の座を降ろされたのです)は、大阪の実業家で政治家の久原房之助に払い下げられましたが、1932(昭和7)年に不審火により焼失し、現存していません。



真宗信徒生命保険株式会社(現・西本願寺伝道院)(1912(大正元)年竣工)

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建築当初は「付属室」「倉庫」「物置・人力車置場・便所」「屋根付伝い廊下」が付属の建物としてあったものの、現在はレンガ造二階建の「本館」のみが竣工当時のまま現存し、京都市指定有形文化財に指定されています。

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赤レンガ造り、一部ドーム付きの二階建て。インド・サラセン様式(インドの伝統的な様式と西洋建築を折衷させた様式)のエキゾチックな建物です。
周囲を取り巻く敷地の境界には御影石一本造りの石柱が並べられ、その柱頭にはライオンや羽を持つ象などの動物の彫像が施されています。この石柱も文化財に指定されています。

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内部はケヤキ造りの黒光りした階段や、高い天井から吊り下げられたシャンデリア装飾が施されています。

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伊東忠太の手がけた西本願寺の建築物として最も有名なのが、古代インド様式の伽藍を持つ築地本願寺(1934年)です。竣工当時は、東京の人々の目に奇異に映り、あまり評判のよろしくなかった建物ですが、今や伊東の代表作となり、浄土真宗本願寺派が擁する東の一大拠点として、また街の顔としても存在感を醸し出しています。

築地本願寺 〈築地本願寺〉

ただし、伊東にとってこの“作品”すらもそれほど満足のいく出来ではなかったようで・・・
残念だが自分が期待した傑作とはならなかつた。それには理由があることで、尊由師は、自分の立場をよく理解して一切を任せるといふのだつたが、寺院當事者の建築といふものに對する無理解から、干渉がましい注文などがいろいろ出されたので、随分骨を折つて見たが、結局功を一簣に缼くといふやうな成績となつた。他から干渉されたものに會心の作などは決してできないものだが、實は私の推敲や努力もまだ足りなかつたためである。
『建築学者 伊東忠太』著者・岸田日出刀 より

尊由師とは大谷光瑞の弟である大谷尊由のこと。第1次近衛内閣では拓務大臣を務めた貴族院議員でもありました。尊由が1923(大正12)年の関東大震災で潰れた築地本願寺の再興を任されていて、伊東との窓口となっていました。この人も兄・光瑞と同じく、先見性のある人物で、伊東の印度式建築に理解を示した人だったのですが・・・教団を取り巻く人々の多くは、やはり伊東の建築様式に抵抗を感じていたようです。


建築家は施主がいて、初めて成り立つ職業です。理想を実現させるには、建築家の仕事はあまりに大きく、画家や彫刻家のように、個人のやりたいように表現できない難しい職業、もといゲージツ家なのです・・・。



伊東忠太の手がけた京都の建築物 その5

2011年04月29日 02:19

大谷光瑞と並んで、伊東忠太のパトロンとして有名なのが、大倉喜八郎でした。
大倉喜八郎(1837(天保8)年―1928(昭和3)年)は、戊辰戦争から日清、日露戦争と政府に取り入り戦争特需で大儲けし、大倉財閥を一代で築いた傑物です。大倉財閥の系譜に連なる現在の企業としては帝国ホテル、大成建設、ホテルオークラなどがあります。

大倉喜八郎 〈大倉喜八郎〉

伊東忠太が携わった大倉関連の建築では、1927年に竣工した「大倉集古館」「祇園閣」「大倉喜八郎京都別邸」等があり、それ以前にも私邸の門や葬儀場の設計を依頼されたようですが、実現には至りませんでした。

伊東と大倉喜八郎との関係は、そもそも大倉の息子である喜三郎が帝国大学工科大学で伊東の一年後輩だったという縁から。「一九一二年の大倉向島別邸の建設の際に、片山東熊や妻木頼黄とともに相談を受けたことに始まった」(鈴木博之編『伊東忠太を知っていますか』2003年、王国社刊 より)ようです。



祇園閣(1928(昭和3)年竣工)

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現在、京都東山にある大雲院となっている地は、もともと大倉喜八郎の別邸「真葛荘」で、敷地内に建築された3階建ての建物がこの祇園閣です。

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〈竹村俊則著『新撰京都名所圖會』第一巻(1958(昭和33)年刊行)より〉


ある日、伊東は大倉喜八郎に電話で呼び出されます。
そして大倉が言うには・・・、風雨に煽られた自分の傘が漏斗状に反転し、その形がおもしろかったので、その形を模して建築物を造ってほしい、とのことでした。
あっけにとられた伊東は、渋々ながらも数件の設計案を仕上げ、数日後に大倉の元に持参するも「格好が悪い」とあえなく却下。後日、伊東は再度、大倉に呼び出され今度は・・・祇園の鉾の形をそのまま建築化した建造物を造り、街を一望できる高閣として京都の名所にしたい、と要望してきたのです。そして完成したのが、祇園閣なのでした。

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現在、祇園閣や旧大倉家京都別邸(書院)を所有する大雲院は、浄土宗系の単立寺院。織田信長と信忠親子の菩提を弔うため1587(天正15)年に烏丸二条で創建されました。その後、秀吉の都市計画整備で寺町通りに移転し、さらに近年になってデパート高島屋の増床に伴い、1972(昭和47)年に現在地へと移転してきたのです。

新撰京都名所圖會 大雲院1新撰京都名所圖會 大雲院2
〈竹村俊則著『新撰京都名所圖會』第四巻(1962(昭和37)年刊行)より 四条河原町界隈にあった頃の大雲院〉


銅板葺きの屋根は、金閣、銀閣に次ぐ銅閣とするべく大倉が指示した、ともいわれています。
また、鉾の頂と、昇降口施用面銅扉の左右に施された鶴は、大倉喜八郎の幼名・鶴吉と号・鶴彦にちなんで“鶴”が形作られているのです。

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特異な造型の祇園閣ですが、今や東山の風景にはなくてはならない建物となっています。





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