詩人 天野忠 その2

2010年09月01日 00:21

天野忠は1909年、中京区新町御池に生まれました。実家は金箔箔置、ぼかし友禅の職人で、
京都一商卒業後は大丸京都店に勤め、戦争末期には徴用逃れのため神戸の軍需会社へ転職しています。
戦後は出版社勤務、古書店経営を経て、1972年までの20年間は奈良女子大学の図書館に勤務しました。
1932年に処女詩集『石と豹の傍らにて』を、1937年に『肉身譜』を出版しますが、その後、同人誌に作品を発表することはあっても、
1950年『小牧歌』を出すまでの戦争を挟んだ自身の30代は、創作において沈黙の時代だったようです。

天野忠顔写真(天野忠詩集裏表紙) 〈思潮社版 天野忠詩集の裏表紙より〉

その後、1974年『天野忠詩集』で第二回無限賞を、1981年『私有地』で第三十三回読売文学賞を、さらに『続天野忠詩集』で第四十回毎日出版文化賞を受賞しています。
(無限賞がどのような賞かわからず調べてみましたら、第五回には『詩集1946~76』で田村隆一が、第七回には『春、少女に』で大岡信が受賞していました。しかし、それ以外に情報がありません・・・。『無限』という雑誌がかつてあったみたいですが・・・。)
今や、埋もれかかった詩人と言うには、何とも申し訳ないほど大きな賞を受賞していたんですね。

1971年に刊行された『天野忠詩集』(永井出版企画)は、朝日新聞の文芸時評を担当していた丸谷才一をして、今までこの詩人を知らなかったことが恥ずかしいとまで言わせ、 
550ページ、定価5千円の大著にもかかわらず、初版が1ヶ月で完売したなどの逸話もあります。
また、『クラスト氏のいんきな唄』を読んで驚嘆した三島由紀夫がレコードに吹き込むことを考え、そのためレコード会社の人が版元の文童社に数冊求めにやってきたが、三島由紀夫の自殺によって実現しなかった、とか。

天野忠詩集(永井出版企画)表紙 〈天野忠詩集(永井出版企画)〉


通り一遍の経歴を付してみましたが、天野忠の歴史を知るには詳しい著作が出ています。
『北園町九十三番地 天野忠さんのこと』(著者・山田稔、2000年、編集工房ノア)と、『天野忠さんの歩み』(著者・河野仁昭、2010年、編集工房ノア)です。

どちらも、同人雑誌の頃から、晩年のこと、さらには小出版社「圭文社」で天野忠と富士正晴が一時同僚だった話まで詳しく記されていますが、
特に『コーマルタン界隈』の著者でフランス文学者でもある山田稔氏の『北園町九十三番地 天野忠さんのこと』は、山田氏と天野忠との個人的な交流を描いている分、より興味深い内容となっています。ちなみに書名は天野忠の住所です。

「北園町九十三番地」表紙 
〈『北園町九十三番地 天野忠さんのこと』山田稔著(編集工房ノア)〉

1982年、新聞で天野忠の読売文学賞受賞を知った著者。その掲載写真を見て「やっぱりあのひとか」と25年前、奈良女子大でフランス語の非常勤講師をしていた若い頃を思い出します。
京都からの通勤途中、たまに奈良電の駅のベンチで一緒になる生白い顔色の、温厚そうな人。それが当時、図書館に勤務していた天野忠でした。
懐旧の情をそそられ、編集工房ノアの社主に直接、詩集『私有地』を注文し、たちまちその詩に魅せられます。そして、受賞のお祝いと『私有地』の感想を葉書に書き送ったことから、著者と天野忠との交流が始まるのです。
おもしろいのは、著者が自分の受賞作に手紙を添え、「むかし奈良女子大でフランス語を教えていた若造は、いまこんなものを書いております」と自己紹介する気持ちで天野忠の家を探しに出かけるところです。
著者は、家を見つけると、郵便受けに本を差し込み、急ぎ足でその場を去ります。すると翌日には著者の郵便受けに『天野忠詩集』が入っていました。その本は郵送ではなく、天野忠自身が届けたものだったのです。
その後、両者の間には自著を互いの郵便受けに入れておく習慣ができあがる、と(笑)。
ただ、晩年、いや最晩年と言うべきでしょうか、1988年頃から足腰の衰えにさいなまれていた天野忠が、意を決して手術をするも歩行不能に陥り、そのあたりから老いを滑稽さでいなすことが出来ず、山田氏の文章も影を落とし、読むのも辛くなってしましまいますが・・・。

“老人ごっこ”を愉しんでいたはずの天野忠の客観の眼が、足が不自由になった頃から急に見られなくなり、創作も途絶えがちになってしまうのです。

「天野忠さんの歩み」表紙 〈『天野忠さんの歩み』河野仁昭著(編集工房ノア)〉




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無名の南画家 その2

2010年09月18日 23:27

『無名の南画家』は、雑誌『南画鑑賞』に1941(昭和16)年6月から翌2月までの5回にわたって掲載され、
1947(昭和22)年2月に日本美術出版社から単行本として出版されました。
その後、長らく絶版であったものが、1970(昭和45)年に三彩社から復刻されています。
とはいえ、朱い箱入りの三彩社版さえ、もちろん今では古本でしか手に入りません。


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〈主人公がたびたび山内を通り抜ける黒谷金戒光明寺。幕末には京都守護職が置かれ、城郭の佇まいも残る。堅牢な門〉


加藤一雄は1905(明治38)年、大阪市天王寺区生まれ。第四高等学校を経て、京都大学文学部哲学科を卒業します。
京都市立絵画専門学校(のちの京都市立芸術大学)教授をつとめたのち、関西学院大学教授など関西の私立大学で美術史を教えていました。
1980(昭和55)年、心不全のため右京区嵯峨の自宅で亡くなるまで、ずっと京都で過ごしたようです。
他の主な著作は、小説『蘆刈』(1976年、人文書院)、そして没後の1984年に刊行された『京都画壇周辺 加藤一雄著作集』(用美社)です。


芸術に魅せられ、振り回され、堕ちてゆく・・・、プライドは高いが憎めない靄山先生。その先生に気に入られた“ぼおっとした”子どもの「私」が京都の風物を絡めて美しく描き出し、
さらにおちゃっぴいで不良少女の「おさん」が先生との対比で、あたかも無垢な観世音菩薩のようにも思えます。
戦時中にこのような文章が書かれたというのがなんとも驚きです。
そして文章の巧さというのは、その人の息づかいや佇まいと同じようなもので、持って生まれた資質なんだなあ、とつくづく思ってしまう、そんな小説です。しかも読み返すほどその思いが強くなるのですから不思議ですね。
これほどの作品なら発表当初から話題にもなり、加藤一雄のもとへ小説の依頼も来たでしょうに、美術雑誌「三彩」に『蘆刈』(1972年4月号―1975年2月号まで28回掲載)を書くまで小説は発表しませんでした。

著者は三彩社版『無名の南画家』のあとがきで、
「実際なぜこんなものを書いたのか、書いた本人の私にさえも明瞭には合点がゆかない。ただ時期が日華事変真最中の暗鬱な時代であったから、われわれ小型のインテリたちは気が鬱していた。気鬱し、志屈した時は、ひょっとして、人はこんなものを書くものだという一つの例証にはなるかも知らない。私はこの事実は微かながら当時意識していた記憶がある。」
「主人公に南画家を持ってきたのは、取りも直さず、掲載誌に対するお愛想からである。もし相手が書道雑誌であったなら、私は恬然として『無名の書家』を書いたであろう。」
と、深い意味もなく書いたように謙遜していますが、本当のところはどうなのでしょうか?
同じく、あとがきで、
「このヘンな拙稿を書いて以来、私の周囲の世間(と言っても狭いものだが)、ともかくその世間は私をもって秋毫も学者として扱わなくなってしまった。広い世間から言えば取るに足らぬことながら、私としては少なからず家業に差支えが出てくるのである。しかしまあこれは自業自得で仕方がないものとして、唯一つ困ったことには、肝心の私自身が、何んらかの対象を前にして、これを学問的に取扱えなくなったことである。昔先生から教わったようにwissenschaftlichにやらねばならぬ、とは重々解っているのだが、いつの間にかその対象を随筆みたいに(もっと悪い時には)小説みたいに取扱っている」
と語っています。(wissenschaftlichはドイツ語で、学問的に、科学的に、という意味でしょうか・・・)

本業に差し支えが出たのか、たしかに小説は多く書きませんでしたが、800頁に及ぶ大著『京都画壇周辺 加藤一雄著作集』には、多くのエッセイがまとめられ、小説にも比する珠玉の文章(珠玉なんて言葉、恥ずかしくてあまり使いたくありませんが)を読むことができます。
専門の美術史に限らず、いやむしろ美術史に関心がなくとも、当時の京都の様子や風物が興味深く美しく描かれていて、加藤一雄の博識と洞察の視点は読んでいて心地よいです。


201009171103346a6[1] 〈『京都画壇周辺 加藤一雄著作集』(用美社)〉


『京都画壇周辺 加藤一雄著作集』の巻頭では富士正晴が「恍惚」という文章を書いています。これによると――

富士正晴が加藤一雄と知り合ったのは昭和16年頃。当時、富士正晴は弘文堂書房の編集者でした。
この頃、弘文堂書房では手頃の日本美術の写真集をつくることになって京大の美学の専門家のもとへしきりに通っていたといいます。
真如堂のそばにあった加藤家を一度訪ね、“はなはだ静かな好感を抱いて”満足して帰ります。訪問はこの一回きりでした。
ちょうど、『無名の南画家』が書かれ、発表される頃にあたります。しかし、その小説についての話が出ることはなかったそうです。
富士正晴が『無名の南画家』を初めて読んだのはもっと後になってから。
京都の古本屋で何気なく『南画鑑賞』をパラパラとやっているうちに読み、「こんなうまい小説はない」と、その全部を切り取って綴じて表紙をつけて何回も読んだ、とのこと。
その後、加藤一雄と富士正晴が再会したのは35年後に出版された小説『蘆刈』の出版記念会でした。
富士正晴は加藤一雄の印象を(もちろんその大半は生身の加藤一雄ではなく、文章を通じてでもあるのでしょうが)、
「なつかしい、冴えた、しかも温い(小説の中の人物の皮肉めいた扱いの裏にそれは濃厚にある)聡明きわまる、知識の自然な幅と深みのある人物であったことを今更感じないではおられない」と語っています。


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〈加藤一雄の住まいがあった真如堂門前〉


小説の舞台は左京区の吉田神楽岡、黒谷あたり。
大文字山の正面にあたるこの丘陵地帯は、周辺に真如堂、黒谷金戒光明寺、吉田神社、後一条帝や陽成帝の陵、そのほか小さな寺院が点在し、住宅も密集して趣のある地区となっています。
真如堂の門前に住んでいた著者がこの地を舞台にしたのは至極当然のことで、
戦争も末期、隣組防火班の監視哨をしていた加藤一雄は、空襲警報が鳴ると高台にある黒谷金戒光明寺の墓場へのぼって監視していました。そこからは亡びゆく大阪の火焔が「遠眼鏡でみる他人事みたいに、薄情な程はっきりと」見ることができたといいます。
そんな空襲のさなかに、竹内栖鳳の墓や海保青陵の墓を見付けたりするというようなことも『京都画壇周辺』には詳しく載っています。


20100918205146028[1] 〈神楽岡から眺める大文字〉


デビット・ゾペティの小説『いちげんさん』で目の不自由な女性・京子の家もこの神楽岡辺りの設定だったような・・・。
(映画『いちげんさん』(2000年)は、曰く付きの映画祭「京都映画祭」で京都市から1億円の助成が出され、第2回京都国際映画祭のオープニングで大々的に上映されたましたが、興行的にダダ滑りだったことは内緒です(笑)。その後、この映画祭自体も華麗にフェードアウトしたのでした・・・が、なんだか今年、10月6日から第7回京都国際映画祭をするみたいです。いったい盛り上がるのでしょうか)



織田作之助と京都 その1

2011年07月31日 00:59

織田作之助と京都


織田作之助を語る上で外せないのが、青山光二。
そう、このブログで紹介した奇人哲学者“土井虎”こと土井虎賀寿をモデルにした小説『われらが風狂の師』(1981年、新潮社刊)の著者、その人です。


青山光二は1913年(大正2)2月生まれ。1930(昭和5)年に第三高等学校文科甲類に入学。同学年には田宮虎彦や戯曲家の森本薫(『女の一生』の作者)がおり、一年の終わりに文芸部の投書箱に「廻る」という30枚ほどの習作を投函し、それが『嶽水会雑誌』(三高の文芸部が編集していた校友誌で、かつては梶井基次郎の「矛盾の様な真実」も掲載されていました)に載ったことから、文学の道を本格的に志すようになります。その時、二年生で文芸部の編集にあたっていたのが西口克己でした。
『嶽水会雑誌』は四、五人の文芸部委員が合議して編集するのだったが、私の幼稚な作品の掲載をきめたのは西口克己であるらしかった。西口は当時は難解でハイカラな詩を書いていた。後年、『廓』にはじまる、誰にでも読める小説を書くようになるとは思いもよらなかった。
〈青山光二『懐かしき無頼派』所収「京都・文学的回想」より〉

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〈『懐かしき無頼派』著者・青山光二、1997年、おうふう刊〉


青山光二より一年遅れて1931(昭和6)年に三高文科甲類に入学してきた織田作之助でしたが、青山が二年の9月から肺尖カタルを口実に一年間休学したこともあり、初めての出会いは1933(昭和8)年10月にふたりが三年生になったドイツ語の試験会場で。
織田の方から「青山君でしょう? こっちへ来ませんか」と声をかけます。一年間の休学でドイツ語を忘れてしまっているであろう青山を気遣いカンニングの手はずを整え、自分の後ろの席に青山を座らせたのをきっかけに、33歳で織田が亡くなるまで終生無二の友人としての付き合いが始まったのです(ちなみに、その際のカンニングは失敗に終わったようです(笑))。

そして、もうひとり織田を文学的指向(当初、織田は小説ではなく戯曲に傾倒していたようです)に導いた人物が、織田と同年に三高の文科甲類に入学し、在学中から詩誌『椎の木』(主宰・百田宗治)同人として活躍していた詩人・白崎礼三でした(白崎は太平洋戦争末期、30歳にして肺結核で亡くなりましたが、後年、1972年に富士正晴と青山光二の共編で『白崎禮三詩集』が刊行されています)。

つまり、織田作之助を文学の世界に引っ張り込んだのが白崎礼三で、当初は劇作家志望だった織田を小説家志望へと転身させたのが青山光二だったのです。

年三回発行されていた校友誌『嶽水会雑誌』の合評会が寺町の鎰屋(梶井基次郎の作品で有名な鎰屋ですが、当時の三高生御用達の店でした)で行われた1934(昭和9)年1月。三年生の青山と織田が編集を任されていて、当時二年生の野間宏の投稿小説について、その席では激しいやりとりがあったようです。
その号には、野間宏が小説を書いていた。野間は文芸部員ではなく、原稿も募集に応じて投稿して来たものであった。はじめに織田が読んでダメだと言っていたのを、私がこれはいいと主張して載せたのだった。
野間は会が始まる頃になってから、のちに彼の義兄となった富士正晴といっしょに、のっそりとはいって来た。野間は長いマントを羽織った陰鬱な表情の生徒で、会のあいだじゅう、ほとんど一言も口をひらかなかった。代わりに富士が、野間の分も二人分、いやそれ以上も、威勢のいい調子で弁じ立てた。富士は詩を発表していた。
〈青山光二『青春の賭け 小説織田作之助』所収「漂白」(初出は「中央評論」昭和25年11月号)〉

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〈『青春の賭け 小説織田作之助』著者・青山光二、2010年、講談社文芸文庫〉

その席で初めて、病気療養中で合評会のためだけに故郷の敦賀から出てきた白崎が青山と対面。その夜、織田も含めた三人で新京極・四条界隈の喫茶店や飲み屋を歩き回り文学談義に花を咲かせ、円山公園の円山食堂で夜を明かし、三人は終生の友人となったのでした。
その頃、三高生がよく行った酒のみ場所は、新京極裏の正宗ホール、四条大橋西詰の八百政、たまには南座前の菊水などだったが、あまり酒を飲まない私たち三人は喫茶店をハシゴすることの方が多く、四条河原町の長崎屋あたりが街あるきの出発点だった。長崎屋の近くの路地の「ヴィクター」というほの暗い店や、河原町三条の「リプトン」へも毎日のように行った時期がある。
〈青山光二『懐かしき無頼派』所収「京都・文学的回想」より〉
DSC04937_R.jpg 〈南座前の「菊水」〉

しかし、三人のうちで青山光二は順調に卒業し東京帝国大学文学部に入学するものの、織田は五年も通ったにもかかわらず、試験結果がかんばしくなかった上に、出席日数も少なかったため卒業できず、白崎も織田に同調してか、同じように三高中退という経歴に付き合う羽目となりました。
そして青山が東京で学生生活を送り、織田と白崎が京都に残ってまだ三高の三年生をしていた時に、織田と知り合ったのが後に彼の糟糠の妻となる宮田一枝でした。

三高近くの酒場「ハイデルベルグ」の住み込み女給だった彼女に一目惚れした織田は、その酒場に通い詰め、ふたりで織田の下宿に住む同意を彼女から得ます。しかし、彼女にはすぐに実行出来ない訳がありました。宮田一枝は「ハイデルベルグ」を経営していた映画監督・徳永フランクに借金があったのです。
宮田一枝は徳永フランクからいくらかの金を前借した上で「アルト・ハイデルベルグ」に住込んでいるようだった。同様な身分の女性と二人で、二階に寝泊りしていたのだが、それを知った作之助は、深夜、彼女を「アルト・ハイデルベルグ」の二階から脱出させることを計画した。(中略)ある夜更け、瀬川がどこかから調達して来た梯子を「アルト・ハイデルベルグ」の横丁に面した壁に立てかけ、一枝の身の廻りの物をつめこんだ柳行李を窓から紐で吊して地面へ降ろし、次に一枝自身が梯子をつたって降りるのを二人で手伝った。一階には徳永フランク夫婦が住んでいるので、こうするのがいちばんてっとり早い脱出方法だった。
〈青山光二『懐かしき無頼派』所収「一通の書簡から」より〉

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〈「ハイデルベルグ」のあった場所は「東大路通東一条」交差点の西〉

瀬川とは織田と同級の瀬川健一郎のことで、後に東大文学部から大阪毎日新聞社に入り、「小学生新聞」の編集長を勤めた人物です。1939(昭和14)年に織田と宮田一枝が結婚する際は独身にもかかわらず媒酌人をつとめました。
どうやらこの脱出劇の時には「こういう仕事には向かない」との理由で白崎は呼ばれなかったようですが、後に、織田が下鴨にあった宮田一枝の実家に求婚の申し出に行った際には友人のよしみで白崎が同行。しかし・・・あまり役には立たなかったようです。

ともあれ、「ハイデルベルグ」を脱出した宮田一枝と織田は、銀閣寺の終点近い線路に沿った通りに部屋を見つけて暮らし始めます。かといって貧しい実家に金を入れなければならない一枝は遊んでいるわけにもいかず、彼らの部屋とちょうど向かい合った、広い電車通りを隔てた場所にある酒場「リッチモンド」に勤めるようになるのです。しかし女給という仕事柄、彼女に言い寄る三高生や京大生も多く、織田の嫉妬や焦燥も募って一枝に暴力を振るったりすることも、たびたびあったようで。同棲当初、織田が一枝に暴力を振るっていたという話は、1944(昭和19)年に30歳で一枝を亡くした時の織田の悲しみぶりからは想像できない逸話です。

DSC01656_R.jpg 〈銀閣寺道〉

さてその後、織田作之助は・・・、青山光二が呼びかけ人となり、東大生の柴野方彦や深谷宏と、三高に残っていた白崎礼三らと同人誌『海風』を創刊。三高を中退した織田は日本織物新聞社や日本工業新聞社(現・産業経済新聞社)に勤めながらも『海風』で作品を発表し続け、1939年9月の『海風』6号に「俗臭」を発表。これが第10回芥川賞候補となり注目を浴びます。そして1940年9月の『海風』10号に発表した「夫婦善哉」が改造社の第一回文芸推薦作品に推されて、作家としてやっていく自信をつけ新聞社を退社したのでした。





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