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河原町のジュリー その1

2011年03月08日 00:35

河原町のジュリー

DSC04034_R[1] 〈四条大橋〉


“京都の奇人”・・・退屈で面白みもない現代にとっては、何とも懐かしく、いい響きです。


かつて京都には多くの愛すべき奇人がいました。その中でも特に有名な人物としては・・・、


堀宗凡(ほり・そうぼん、1914年―1997年)
裏千家十四世・淡々斎に師事した茶道家。しかし60歳前に突然、裏千家を離れ、下鴨の自宅「玄路庵」で独自の茶事、たとえば民族衣装で点前を行うなどの新境地を開きます。そしてなによりも衆目の的となったのは、女装などの非凡ないでたちで、下鴨の自宅から四条までの河原町通りを散歩する姿でした。「京都を代表する奇人、風流人」として今も知る人は多いはずです。


土井虎賀寿(どい・とらかず、1902年―1971年)
“土井虎”の愛称で親しまれた京都学派の哲学者。「異端児」「奇人哲学者」とも呼ばれ、三高や京大で教鞭を執り、小説家の田宮虎彦や野間宏、ノーベル賞受賞者の江崎玲於奈らは土井の教え子でもあります。三高時代から晩年に勤めた獨協大学まで一貫してその授業内容は特異で、奇行の様子は小説家で教え子の青山光二が記した『われらが風狂の師』に描かれています。


甲斐庄楠音(かいのしょう・ただおと、1894年―1978年)
最近は、岩井志麻子の小説『ぼっけえ、きょうてえ』の表紙にこの人の絵が使われ、その異様さから再評価もされているようですが、画家としてだけでなく、溝口健二映画での風俗考証を担当した人物として有名。その才は、映画『雨月物語』で米アカデミー賞の衣裳デザイン賞にもノミネートされるほどでした。ホモセクシュアルでナルシストで、自らの女装した写真をモチーフに絵を描くなど、自己陶酔の芸術家でもあったのです。


まあ、上記の有名人に限らず、古今を通してこの狭い京都の町で乱痴気騒ぎを繰り返す学生も、
京都の数々の大学で学問に没頭しすぎて頭の中の風通しが悪くなってしまった学者センセイも、
隣近所の眼を気にする必要のないこの町でモラトリアムを満喫しゲージツに没頭する夢想家も、
大なり小なり、奇人の素地を持っていて、そもそもそんな人たちを(自分たちのテリトリーを侵さない限りは)寛容に受け止める風潮がこの町の人々には昔からあったのかもしれません。そして、その中には少なからず“奇人”という人々の生き方への羨望の眼差しだってあったことでしょう。

堀宗凡、土井虎賀寿、甲斐庄楠音ら、その他もろもろの奇人については、また追々機会がある時にでも詳しく紹介するとして・・・。


さて、これら“奇人”とは少し性質の違う“奇人”として忘れてはならない人物が、かつて京都にはいました。

むしろ、まわりの人々から不本意にも“奇人”として仕立てられ、そして京都人から愛された“奇人”が・・・そう、かの有名な「河原町のジュリー」です。

「河原町のジュリー」は1970年代から80年代中頃にかけて、京都の繁華街・河原町通りを徘徊していた浮浪者です。

今でこそ、浮浪者の姿はどの町にあっても珍しくありませんが、30年以上も前の、しかも京都一の繁華街にたびたび出現したこの浮浪者は、一種異様の風体と知性すら感じさせる寡黙で虚ろな歩き方から、何をどう間違えたのか、当時一世を風靡していた京都出身の歌手・沢田研二の愛称そのままに、「河原町のジュリー」と名付けられたのです。

しかし、どうして現在のように口コミのツールも発達していない時代に、誰からも同じ愛称で呼ばれていたのかは、今をもって最大の謎!です。そして、誰がつけたか、この絶妙のネーミングセンス!!


たとえば現在の京都でも、(最近は見かけなくなりましたが)三条大橋の毛布にくるまった物乞いの老婆や、四条大橋で幟を立てた托鉢僧侶など、眼につく“定番の人物”はいるものの、当時の「河原町のジュリー」のように小学生に囃されたり、その人物について語られるほどの“奇人”は出てきていません。そういう意味では、「河原町のジュリー」は本家・沢田研二に負けないくらいの本当のスターでもありました。

DSC00945_R[1]
〈最近見かけませんが、三条大橋にいたあの老婆は元気なのでしょうか。賽銭を毛布の中に引き込む時の、その素早さといったら・・・〉

DSC04023_R[1]
〈幟を立てた托鉢僧侶。もはや、四条大橋と一体化した光景でありますが、この人の存在も長いものです・・・(数十年前から同じ人物ですよね?)〉



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河原町のジュリー その2

2011年03月08日 00:41

当時の京都で、「河原町のジュリー」が町のマスコットのように親しまれていたことは、彼がマンガの題材や音楽に歌われたことからもわかります。

彼が取り上げられた作品を紹介してみましょう。どれほど、この人物が、当時の京都にとって、なくてはならない人だったかがわかる・・・わけではありませんが・・・懐かしい時代が思い起こされます。


以前も紹介しました京都出身のマンガ家・グレゴリ青山さんの『ナマの京都』(2004年、メディアファクトリー刊)では、ゆるキャラの元祖「未来くん」とともに登場し、“京のまぼろしびと”として紹介されています。

20110307211526ca3[1] 〈グレゴリ青山『ナマの京都』より〉


また、こちらも以前に紹介しましたが、1980年代中頃に活躍した京都を代表するバンド“ローザ・ルクセンブルグ”が彼を歌った曲は「だけどジュリー」でしたね。以下に「河原町のジュリー」の風貌が思い出される歌詞の一部を再度紹介しておきましょう。
「あっちのベンチでごろり こっちのベンチでごろり うぉうお
 子供が石ころ投げる 野良犬吠える逃げる ジュリー
 だけどジュリー だいじょうぶ だからジュリー 笑ってね」  
「毎日街をふらり はだしのままでふらり うぉうお
 ぼーぼーヒゲは伸び放題 ラスタヘアーがよく似合う ジュリー」
「ヘビメタのやつより ジュリーの髪長い
 サーファーのやつより ジュリーの顔まっくろ」
「やっぱりベンチでごろり 楽しいユメ見てごろり うぉうお
 めさんこ寒い冬のころ 街から姿を消した ジュリー」


そして、いくつもの叙情的な“ガロ的”マンガを描いている、うらたじゅんさんも彼を題材に書いています。タイトルはそのものズバリ「河原町のジュリー」(2007年、北冬書房刊『幻燈7』所収)です。

2011030721152609b[1]
〈うらたじゅん「河原町のジュリー」より 北冬書房刊『幻燈7』所収〉

といっても、ジュリーが主人公の物語ではありません。どこか時代に馴染めず、生き方を模索しているような主人公の女の子が、鴨川の橋の下で分厚い本を読み、道ばたで“しけもく”を拾い、河原町通りで佇むジュリーを気にかけているというセンチメンタルな物語なのです。このマンガの中で彼は、窮屈になりつつあった時代の中でドロップアウトした側の生き方の象徴として重要な役割を担っています。



さて、さて、「河原町のジュリー」の風貌をマンガや音楽で紹介しましたが、彼に対してひとつ多大な誤解がありました。

それは、「河原町のジュリー」は、若くて身なりを綺麗にすれば、沢田研二ばりの今でいうイケメンだと思っていたことです。少なくとも30代、40代の若い浮浪者だとなぜかずっと勘違いしていました。

下にあるのは、彼の死を扱った1984年2月22日付の「過去語らず京の奇人逝く」と題された「京都新聞」夕刊の記事(コラム)です。

20110307211525bf9[1] 〈『京都新聞』1984年2月22日付夕刊〉

意外な情報が“わんさか”載っておりました・・・。

「河原町のジュリー」は1984年2月5日の朝、円山公園の倉庫の下で凍死します。66歳でした。そう、もうかなりのオッチャン、いえ、そこそこのオジイチャンだったのです。
記事には容姿についても詳しく載っています。
黒の背広のボロ着に破れたズボン、素足に長髪の姿は、確かにきれいではないが、猫背に腕を組み、スリ足でチョコチョコと歩く格好に、どこか愛きょうがあった。
どうやら、ねぐらは三条通りのアーケードの下だったらしく、寺町から四条、河原町、三条と一日かけて歩くことが日課だったようです。

DSC00937_R[1] 〈三条河原町〉

そして、遺体を引き取る親類がいたことも意外でした。ジュリーは戦争から復員し、二年間は結婚生活の経験もあり、四国の実家で親の商売を継いでいたようですが、亡くなる26年前にその四国の実家を飛び出し、それ以来、音信不通となっていたのだとか。


「河原町のジュリー」に関する噂話で、もう一つ当時の人々の口に上がっていたのは、「実は実家は大そうな金持ちで、世をはかなんで浮浪者に身をやつした」だの、「大金持ちが酔狂で浮浪者の格好をして人々の反応を楽しみ、夜は大豪邸に帰っていく」との、金持ち伝説がありました。
ただ、これらの噂はおそらく、当時、同じように河原町を闊歩したもう一人の“京都の奇人”堀宗凡が、料亭を営む裕福な家庭の出自であったことから、混同されていたのでは、とも推察できるのです。



奇人が町に出現するのか、町が奇人を生み出すのか・・・。どちらにせよ、今の京都には奇人を生み出す粋な余裕すらないように思えますネ・・・。



日本画家 甲斐庄楠音 その1

2011年03月28日 00:47

日本画家 甲斐庄楠音


1999年に角川書店から出版された岩井志麻子の小説集『ぼっけえ、きょうてえ』。「第6回日本ホラー小説大賞」や「第13回山本周五郎賞」を受賞した作品そのものもさることながら、単行本の表紙に使われた絵が注目を浴びます。

絵のタイトルは「横櫛」。作者は甲斐庄楠音(かいのしょう・ただおと、1894年-1978年)という人物でした。

横櫛 1916年 京都国立近代美術館
〈「横櫛」 1916年 京都国立近代美術館所蔵〉

その絵は、従来の女性画、美人絵にはない、人間の暗部を描き出す生々しい作風で、悪魔的、退廃的と称される言葉がぴったり当てはまります。

幻覚(踊る女) 1920年頃 京都国立近代美術館
〈「幻覚(踊る女)」 1920年頃 京都国立近代美術館〉

没後二十年にして奇しくも本の表紙に作品が用いられたことから、再評価を受けることとなる甲斐庄楠音ですが、描く作品の異様さと同様に、この人の人生もまた“奇人”と呼ぶにふさわしい、波瀾万丈の人生だったのです。

ホモセクシャルにしてナルシスト。画家にして風俗考証家。名匠・溝口健二の片腕として数々の映画で風俗考証を担当し、『雨月物語』では米アカデミー賞の衣裳デザイン賞にノミネートされ、年老いてなお、素人芝居の女形を演じ・・・。
この短い肩書きだけでも、彼の才能と怪しさは理解できることでしょう。


甲斐庄楠音の人生については、フランス文学者であり美術評論家の栗田勇氏が著した『女人讃歌―甲斐庄楠音の生涯―』(1987年、新潮社刊)等に詳しく描かれています。

女人讃歌ー甲斐庄楠音の生涯ー
〈『女人讃歌―甲斐庄楠音の生涯―』(著者・栗田勇、1987年、新潮社刊)〉



1894(明治27)年、京都に生まれた楠音は、父方が楠木正成の末裔にして旧旗本の名家(父には側室もおり、9人兄弟の5番目の子供でした)。母方が御所士(女人禁制の御所にあって、諸卿・諸士の接待に従事する宮仕え)の家庭という恵まれた環境に育ちます。

喘息持ちで体の弱かった楠音を父は兄弟の中でも溺愛し、5歳頃までは女の子の着物を着て人形遊びに興じていたのだとか。
中学は当時のエリート校である第一中学校に入学しますが、進学校の空気に馴染めず、京都市立美術工芸学校図案科へと編入。
この頃には父は亡くなっていて、東京に住む長兄・楠香の経済的援助で、父親の存命中と変わらぬ不自由のない生活を送っています。

その後、京都市立絵画専門学校に進学し、ダ・ヴィンチに傾倒して西洋絵画の美術書を読みあさり、素人歌舞伎の女形を演じるなど芝居に熱狂。自らの女装した姿を写真に撮り、それをモデルに絵を描くという自己陶酔の制作スタイルを確立したのです。
画壇に登場したのは、1918(大正7)年。学校の先輩である村上華岳、土田麦僊、入江波光、小野竹喬、榊原紫峰らが文展に対抗してつくった「国画創作協会」の第1回展に出品した「横櫛」によってでした。

横櫛 1918年 〈「横櫛」1918年〉

1922(大正11)年には帝展に「青衣の女」が入選。このまま京都画壇を代表する作家に成長するかに思えた楠音でしたが、彼にとって大きな事件が1926(大正15)年に起こりました。
それが、俗に言う“穢い絵”事件です。

国画創作協会の第5回展に出品予定だった「女と風船(蝶々)」が、会を主宰していた土田麦僊によって“穢い絵”だとして直前になって出品を拒否されたのです。

1928(昭和3)年には、楠音の主戦場であった「国画創作協会」が解散。
この後、画壇とは徐々に疎遠となり、1940(昭和15)年の時に知り合った溝口健二によって、映画の世界に進出します。
芝居好きが興じて得た知識は、映画界の風俗・衣裳考証の分野で大いに生かされました。
そして1955(昭和30)年、61歳の時には『雨月物語』(溝口健二監督)で米アカデミー賞の衣裳デザイン賞にノミネートされるという快挙を得るのです。
しかし、翌年、溝口健二が亡くなると、未練なく映画界を去り、絵の世界へと戻ったのでした。

その後は、映画時代から加わっていた映画関係者・芸術家たちのサークル「山賊会」での個展で絵を発表したり、素人芝居に精を出したり、旧作の絵に筆を加えたりと悠々自適の生活を送っていたようです。また1963(昭和38)年に京都市美術館で国画創作協会回顧展が開催されると、過去の作品を通じて再び注目されましたが、思うように新作の筆は進まず、1978(昭和53)年、83歳で亡くなりました。


なお、現在、楠音の作品は『甲斐庄楠音画集 ロマンチック・エロチスト』(監修・島田康寛、2009年、求龍堂刊)で見ることができます。

甲斐庄楠音画集 ロマンチック・エロチスト 求龍堂
〈『甲斐庄楠音画集 ロマンチック・エロチスト』(監修・島田康寛、2009年、求龍堂刊)〉




日本画家 甲斐庄楠音 その2

2011年03月28日 00:52

二枚あった出世作「横櫛」・・・。


甲斐庄楠音の出世作「横櫛」には、二つの絵が現存しています。

ひとつは、1916(大正5)年に制作された京都国立近代美術館所蔵のもの。
もうひとつは、1918(大正7)年に制作された広島県立美術館所蔵のものです。


1918年の「国画創作協会」第1回展に出品した「横櫛」で一躍注目を浴びた甲斐庄楠音。「国画創作協会」とは、土田麦僊や村上華岳ら京都市立絵画専門学校の第1回卒業生を中心に、当時の若手の登竜門であった「文展」に対抗して作られたグループ展でした。

燦然と輝く蜂葡萄酒の広告塔を眺めながら四条大橋を通っていた楠音は、普段から尊敬していたものの親しくはなかった先輩・村上華岳に突然声をかけられます。「校友会の横櫛は良いですね。感心しました。美人画の新しい境地を・・・一線を劃された」「吾々が今度ひらく国画創作協会へ、あれを出品してくれますか」と。
“あれ”とは楠音が絵画専門学校の卒業制作で校友会展に出品したとされる「横櫛」(1916年)のことでした。
これは卒業制作の締め切りが迫っていたにもかかわらず、何もしていなかった楠音が、前年に長兄の嫁・彦子と南座で見た歌舞伎「処女翫浮名横櫛」の印象を元に、彦子をモデルに思い描き、一週間で仕上げた作品だといわれています(ちなみに「横櫛」完成の半年前に、彦子は東京で病没していました)。

そして、この絵が現在、京都国立近代美術館に所蔵され、『ぼっけえ、きょうてえ』の装丁に用いられた「横櫛」なのです。

横櫛 1916年 京都国立近代美術館 〈「横櫛」 1916年 京都国立近代美術館〉



そして、おそらく国展(「国画創作協会」第1回展)出品のために改めて新しく描かれたであろう「横櫛」(1918年)は、岡本神草の「口紅」とならんで大変な評判となり、画葉書が飛ぶように売れ、どちらも“樗牛賞”候補に挙げられます。ところが、村上華岳が「横櫛」を、土田麦僊が「口紅」を強く推し、どちらも譲りません。そこで竹内栖鳳の仲裁により、金田和郎の「水蜜桃」が漁夫の利で受賞するという因縁が起こります。ただ、その混乱さえも「横櫛」の評判をさらに高める一因でしかなかったようです。

岡本神草「口紅」京都市立芸術大学所蔵 〈岡本神草「口紅」 京都市立芸術大学所蔵〉


下記が国展に出品したときの「横櫛」です。広島県立美術館に現存する「横櫛」と構図は全く同じですが、女性の表情とともに、右上にあったはずの「切られのお富」の絵が短冊に書き換えられていることがわかります。

横櫛 1918年 〈「横櫛」 1918年〉



「横櫛」はその後、国展の後援者であった吉田忠三郎の元へ引き取られます。吉田は村上華岳や土田麦僊の作品のほとんどを所蔵する好事家でもありました。
さらに数年後、楠音に三条河原町の大文字屋の主人・奥村政太郎から「一度お目にかかりたい」と連絡があり、話を聞くと、吉田が亡くなり売りに出されていた「横櫛」を買ったというのです。そして、画面の後ろに描かれている「切られお富」の絵を消してほしいという依頼でした。
楠音もまた、「切られお富」の絵は不必要だと思い、表具屋に消してもらおうと、松浦松栄堂へと渡します。そして、絵のことを思いやっているうちに依頼したはずの奥村もなくなり、楠音も映画の世界へ転身し、ずっと楠音の自宅の二階に放っておかれていました。

その後、1963(昭和38)年に国展の回顧展を行うことになり、府の美術館関係者から「横櫛」出品の依頼を受けます。その頃に「横櫛」を確認するとネズミの小便のようなシミがついていたという散々な始末で・・・。
楠音は「横櫛」の出品にあまり乗り気ではなかったようですが、一緒に出展されるであろう、鬼門に入っていた岡本神草の「口紅」と比較されることを思い、修理に取りかかります。その際に、「切られお富」の部分を短冊に描き換え、顔の全部を洗い直しましたが・・・描き直しても、当時の“アノ微笑”は戻ってこず、「青い鳥は逃げた」と楠音は悲嘆に暮れたのです。

この描き直された「横櫛」はさらにその後、広島県尾道市に住んでいた旧知の洋画家・小林和作にもらわれ、現在の広島県立美術館所蔵となりました。

横櫛 1918年 広島県立美術館 〈「横櫛」 1918年 広島県立美術館所蔵〉



実は長年、「横櫛」は修繕された広島県立美術館所蔵の一点だけと思われていました。ところが、1994(平成6)年に新たにもう一点の「横櫛」が発見されます。それが先に紹介した1916年に描かれ、『ぼっけえ、きょうてえ』の装丁に用いられた京都国立近代美術館所蔵の作品なのです。

つまり、作者・甲斐庄楠音さえも「青い鳥は逃げた」と惜しみ、国展に出品され、華麗なる画壇デビューを果たした往事の作品を彷彿とさせる“アノ微笑”をたたえた「横櫛」を、今は目にすることができるということなのです。
そして、魔性の微笑みをたたえたその絵がホラー小説の単行本の表紙を飾り、多くの人の関心を引いたことは、楠音の波乱に満ちた人生とともに注目に値する出来事だと思うのです。

ちなみに・・・、栗田勇氏が著した『女人讃歌―甲斐庄楠音の生涯―』(1987年、新潮社刊)は、甲斐庄楠音の人生がうまくまとめられた伝記です。しかし新たな「横櫛」発見前に出版されていることから、「横櫛」は一枚だけの前提で描かれてしまっていますので、読まれるときにはご注意を。




日本画家 甲斐庄楠音 その3

2011年03月28日 00:52

ホモセクシャルの楠音が唯一愛した女性・・・。


一生を独身で通し、ホモセクシャルといわれていた甲斐庄楠音。実際、若かりし頃の彼には榊原始更という夫婦のように同棲生活を営む相手がいました。彼は榊原紫峰の実弟で、楠音と同じく日本画家でもありました。
しかし、兄の紫峰がそんな弟の生活を心配し、ふたりを別れさせます。始更を手伝いの女性と強引に結婚させてしまうのです(ただし、それ以降も、戦前まではたびたび始更は楠音のもとを訪れ、兄の紫峰ともども交流は続いていたようですが)。

甲斐庄楠音と榊原始更 〈甲斐庄楠音(左)と榊原始更(右)〉

男性しか愛せない楠音にも生涯で一度、結婚を意識した女性がいました。それが丸岡トクです。
絵画専門学校時代に1学期だけ卒業が延期され留年することになった楠音でしたが、そこで一級下の丸岡比呂史と知遇を得ます。1917(大正6)年頃、丸岡がアトリエとして使っていた部屋で一緒に制作していた際、そこに出入りしていた丸岡の妹・トクと親しくなり、本人同士はもとより、両家の間でさえも将来の結婚が公認となるほどの仲となるのです。
ところが、知り合って三年後、当時相場で当てた20歳も年上の富豪・新実八郎兵衛という人物に見初められたトクは、着物などを買ってもらって別荘に連れ込まれ、泊まり込んだところを囲い者になった・・・という話です(楠音の実妹の話では、その後も平気な顔で楠音とトクは会っていたといいますが・・・)。

さて、楠音が唯一愛した女性・トクをモデルに描いたのが1922年に帝展に入選した「青衣の女」(1919年)です。

青衣の女 1919年 京都市美術館 〈「青衣の女」 1919年 京都市美術館所蔵〉

そして下が、「青衣の女」と同じポーズをとる丸岡トク本人です。

青衣の女のモデル・徳子 〈「青衣の女」のモデル・丸岡トク〉

唯一の愛した女性にさえ裏切られてしまった楠音は、それまで以上に、女性の内に秘めた業や辱めを全面に描くこととなるのです。


春宵(花びら) 1921年頃 京都国立近代美術館
〈「春宵(花びら)」 1921年頃 京都国立近代美術館所蔵〉






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