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ローザ・ルクセンブルグ

2010年10月18日 01:10

ローザ・ルクセンブルグ

ポンパラス
〈解散2年後の1989年に発売されたベストアルバム『ポンパラス』〉


京都出身、もしくは京都色のバンドといえば、古くは「ザ・フォーク・クルセダーズ」、「村八分」、そして新しくは「くるり」あたりになるんでしょうけど・・・、やっぱり「ローザ・ルクセンブルグ」って人も多いんじゃないでしょうか。

ドイツの女性革命家の名を冠したこのバンドは、1983年から1987年まで活動した日本ロック史上最高のバンドともいわれています(ちょっと言い過ぎました・・・)。

メンバーは、どんと(久富隆司、Vo、G)、玉城宏志(G、Vo)、永井利充(B、Vo)、三原重夫(Dr)の4名。
玉城、永井、三原は学年は違いますが京都産業大学の出身。そしてなんといっても、どんとは京都大学工学部出身という当時としては異例の高学歴で注目を集めました。
どんとがライブハウス「拾得」でアルバイトをしていて、そこで玉城と出会ったことが、結成の経緯だったとか。

1年ほど地道に活動をした後、NHKのヤングミュージックフェスティバルに出場し、金賞を獲得。この時披露した「在中国的少年」でデビューしたのです。

しかしロックの定義って難しいですね。というのも、彼らの音楽はジャンル的にはパンクにも、ファンクにも、ヘヴィメタにも、エスニックにも、レゲエにも通じるところがあったりするのです。そして時には中国服を着ていたりして(笑)。
ただ、バンドとして音楽に向かう姿勢がロックだったことは確かなような気がします。



彼らの名曲「橋の下」は必聴です(YOU TUBEとかで勝手に聴いてください(笑))。


橋の下


こんなとこ来たことないけど なぜか来たのが 橋の下
真っ暗でだけどよく見りゃ おやじひとりでなにしてる
そっと座って聞いてていいかい? 静かに響く 川の音

長い髪軽くまとめて 顔をよく見りゃいい男 
真っ黒のカバン ゴソゴソ 取り出したのが花の種
汚れた水だってきれいになるよ 2人で植えた けしの花
なんにもないけど 橋の下 なんにもないけど 橋の下

川なんか見たことないのに 渡ってるよと橋をゆく
橋なんか用がないから 今日もここで2人きり

お花が咲けば 元気になるね
あしたもくるよ 橋の下
なんにもないけど 橋の下



みんな、この歌を聴いて勘違いしてしまうのです。なにがって? この川を鴨川だと思ってしまうのですね。
それほど、ローザ・ルクセンブルグといえば、京都というイメージが出来上がってしまっているのです。
「橋の下」が作られたのは、ローザが東京に出てからのことで、当時、どんとは埼玉の川口に住んでいたのだとか。
だからこの川は荒川のことなのです。暇にまかせて、川に行き曲を作っていた時の一曲なのでした。


しかし、ローザで京都といえば、「だけどジュリー」という名曲(迷曲?)があります。
ええ、もちろんあの「河原町のジュリー」を歌った曲です。

「あっちのベンチでごろり こっちのベンチでごろり うぉうお
 子供が石ころ投げる 野良犬吠える逃げる ジュリー
 だけどジュリー だいじょうぶ だからジュリー 笑ってね」  
「毎日街をふらり はだしのままでふらり うぉうお
 ぼーぼーヒゲは伸び放題 ラスタヘアーがよく似合う ジュリー」
「ヘビメタのやつより ジュリーの髪長い
 サーファーのやつより ジュリーの顔まっくろ」
「やっぱりベンチでごろり 楽しいユメ見てごろり うぉうお
 めさんこ寒い冬のころ 街から姿を消した ジュリー」

歌詞の抜粋ですが、その頃の「河原町のジュリー」の風貌と存在感がたっぷり詰まった一曲だということがわかるでしょう。


「ローザ・ルクセンブルグ」は短い活動期間を経て、解散します。どんとと玉城の目指す音楽の方向性の違いが原因だったとか(まあ、よくあることです)。

程なく、どんとと永井は、Kyon(川上恭生、Key、G、Vo)と岡地明(Dr)の2名を加え「BO GUMBOS(ボ・ガンボス)」を結成。当時、飛ぶ鳥を落とす勢いのエピックソニーから鳴り物入りでデビューしました。
ボ・ガンボスとなり、一気にメジャー度がアップしたのですが、・・・うぅん・・・ローザ時代の方が好きですねえ。


ちなみに、ボ・ガンボスの活動と同時期に、どんとはフジテレビの「平成教育委員会」にレギュラー出演していましたね。初めて見た時は度肝を抜かれました(笑)。
どんとは借りてきた猫・・・ならぬ、座敷犬のようで居心地が悪そうで・・・。京都大学出身という学歴が災いすることもあるんだなあと思った瞬間でした・・・。いや、本人はもちろん楽しんでいたのでしょうが。

その後、どんとは活動の拠点を沖縄に移しソロ活動をしていましたが、2000年、旅先のハワイにおいて脳内出血で急逝します。37歳という若さでした。



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河原町のジュリー その2

2011年03月08日 00:41

当時の京都で、「河原町のジュリー」が町のマスコットのように親しまれていたことは、彼がマンガの題材や音楽に歌われたことからもわかります。

彼が取り上げられた作品を紹介してみましょう。どれほど、この人物が、当時の京都にとって、なくてはならない人だったかがわかる・・・わけではありませんが・・・懐かしい時代が思い起こされます。


以前も紹介しました京都出身のマンガ家・グレゴリ青山さんの『ナマの京都』(2004年、メディアファクトリー刊)では、ゆるキャラの元祖「未来くん」とともに登場し、“京のまぼろしびと”として紹介されています。

20110307211526ca3[1] 〈グレゴリ青山『ナマの京都』より〉


また、こちらも以前に紹介しましたが、1980年代中頃に活躍した京都を代表するバンド“ローザ・ルクセンブルグ”が彼を歌った曲は「だけどジュリー」でしたね。以下に「河原町のジュリー」の風貌が思い出される歌詞の一部を再度紹介しておきましょう。
「あっちのベンチでごろり こっちのベンチでごろり うぉうお
 子供が石ころ投げる 野良犬吠える逃げる ジュリー
 だけどジュリー だいじょうぶ だからジュリー 笑ってね」  
「毎日街をふらり はだしのままでふらり うぉうお
 ぼーぼーヒゲは伸び放題 ラスタヘアーがよく似合う ジュリー」
「ヘビメタのやつより ジュリーの髪長い
 サーファーのやつより ジュリーの顔まっくろ」
「やっぱりベンチでごろり 楽しいユメ見てごろり うぉうお
 めさんこ寒い冬のころ 街から姿を消した ジュリー」


そして、いくつもの叙情的な“ガロ的”マンガを描いている、うらたじゅんさんも彼を題材に書いています。タイトルはそのものズバリ「河原町のジュリー」(2007年、北冬書房刊『幻燈7』所収)です。

2011030721152609b[1]
〈うらたじゅん「河原町のジュリー」より 北冬書房刊『幻燈7』所収〉

といっても、ジュリーが主人公の物語ではありません。どこか時代に馴染めず、生き方を模索しているような主人公の女の子が、鴨川の橋の下で分厚い本を読み、道ばたで“しけもく”を拾い、河原町通りで佇むジュリーを気にかけているというセンチメンタルな物語なのです。このマンガの中で彼は、窮屈になりつつあった時代の中でドロップアウトした側の生き方の象徴として重要な役割を担っています。



さて、さて、「河原町のジュリー」の風貌をマンガや音楽で紹介しましたが、彼に対してひとつ多大な誤解がありました。

それは、「河原町のジュリー」は、若くて身なりを綺麗にすれば、沢田研二ばりの今でいうイケメンだと思っていたことです。少なくとも30代、40代の若い浮浪者だとなぜかずっと勘違いしていました。

下にあるのは、彼の死を扱った1984年2月22日付の「過去語らず京の奇人逝く」と題された「京都新聞」夕刊の記事(コラム)です。

20110307211525bf9[1] 〈『京都新聞』1984年2月22日付夕刊〉

意外な情報が“わんさか”載っておりました・・・。

「河原町のジュリー」は1984年2月5日の朝、円山公園の倉庫の下で凍死します。66歳でした。そう、もうかなりのオッチャン、いえ、そこそこのオジイチャンだったのです。
記事には容姿についても詳しく載っています。
黒の背広のボロ着に破れたズボン、素足に長髪の姿は、確かにきれいではないが、猫背に腕を組み、スリ足でチョコチョコと歩く格好に、どこか愛きょうがあった。
どうやら、ねぐらは三条通りのアーケードの下だったらしく、寺町から四条、河原町、三条と一日かけて歩くことが日課だったようです。

DSC00937_R[1] 〈三条河原町〉

そして、遺体を引き取る親類がいたことも意外でした。ジュリーは戦争から復員し、二年間は結婚生活の経験もあり、四国の実家で親の商売を継いでいたようですが、亡くなる26年前にその四国の実家を飛び出し、それ以来、音信不通となっていたのだとか。


「河原町のジュリー」に関する噂話で、もう一つ当時の人々の口に上がっていたのは、「実は実家は大そうな金持ちで、世をはかなんで浮浪者に身をやつした」だの、「大金持ちが酔狂で浮浪者の格好をして人々の反応を楽しみ、夜は大豪邸に帰っていく」との、金持ち伝説がありました。
ただ、これらの噂はおそらく、当時、同じように河原町を闊歩したもう一人の“京都の奇人”堀宗凡が、料亭を営む裕福な家庭の出自であったことから、混同されていたのでは、とも推察できるのです。



奇人が町に出現するのか、町が奇人を生み出すのか・・・。どちらにせよ、今の京都には奇人を生み出す粋な余裕すらないように思えますネ・・・。





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