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嵐電 RANDEN その1

2010年12月27日 22:41

嵐電 RANDEN 著者・うらたじゅん 北冬書房

嵐電_0001


『嵐電 RANDEN』は作者の第二作品集で11編の短編が収められています。ほとんどが北冬書房発行の漫画雑誌『幻燈』に掲載された作品ですね。

北冬書房は、青林堂で月刊漫画雑誌『ガロ』の編集に携わっていた高野慎三氏が1972年に立ち上げた出版社です。
高野氏は、つげ義春著「ねじ式」の“××くらげ”を“メメクラゲ”と誤植しちゃった人でもあります。

『幻燈』は年一度ほど、不定期に刊行されている漫画雑誌で、『ガロ』全盛期を築いたひとり・高野氏がつくっているだけあって、つげ忠男、菅野修ら『ガロ』テイスト満載の執筆陣が揃っています(『幻燈』は『ガロ』なき今、青林工藝舎の『アックス』とともに、『ガロ』的作家にとっては数少ない主戦場なのです)。
このヘビーテイストな漫画雑誌に毎回掲載されているのが、「うらたじゅん」さんで、それだけで作風はわかりますね。


幻燈11_0001 (最新号の『幻燈』NO.11 表紙は、つげ義春です〉

うらたさんは1954年、大阪生まれ。経歴は・・・ほとんど知りません。
京友禅の絵付け見習いやイラストレーター、同人誌での活動はあったようですが、マンガ家としての全国誌デビューは1998年の『幻燈』創刊号です。というか、『幻燈』や『何の雑誌』(幻堂出版)以外で作品を見たことがないですね。
2003年に『眞夏の夜の二十面相』を、そして2007年には本作『嵐電 RANDEN』(どちらも北冬書房)を刊行し、近年では、2008年に唐十郎が読売新聞夕刊に連載した小説「朝顔男」の挿絵を描いていたようです。


うらたさんの多様な作風は、作品集『嵐電 RANDEN』を見るだけでもわかります。絵は、正直上手いとは言えませんが、昭和ノスタルジーあり、つげ義春的リアリズムあり、そして幻想奇譚あり・・・。

そもそも、うらたさん自身が、つげ義春の「紅い花」を読み、ガロの世界に傾倒していったようで、つげ義春の作風が好きな人には、馴染みやすい作品が多いでしょう(つげ作品にリリシズムをさらに加えた感じとでも言いましょうか)。




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嵐電 RANDEN その2

2010年12月27日 22:43

さて、作品集『嵐電 RANDEN』で京都が舞台となっている作品は二つあります。


表題作でもある「RANDEN(嵐電)」(2000年、WEB「つげ忠男劇場」初出)は、昭和ノスタルジー色の濃い作品のひとつです。

そもそも嵐電とは、1910(明治43)年に開業した京都市の西を走る小さな電車で、京福電鉄の嵐山本線と北野線のこと。

嵐山本線は四条大宮から嵐山までの7.2キロを走り、北野線は北野白梅町から嵐山本線と繋がる帷子ノ辻(かたびらのつじ)までの3.8キロの短い距離を走っています。
北野線には等持院、竜安寺、妙心寺、仁和寺などの名刹が沿線に揃っていて、嵐山本線には太秦、そう“日本のハリウッド”があるのです。

現在も撮影現場を見学出来るレジャー施設として東映太秦映画村がありますが、うらたさんのマンガの舞台となっている1960年前後は、大映、東映、松竹の撮影所があって、映画産業が最後の輝きを放っていた時代でした。

あとがきにあるように、この物語はフィクションのようですが、作者の母親が映画スターの追っかけをしていて、大阪から乗合いバスや電車を乗り継ぎ、撮影所まで頻繁に通っていたようで、その時代を描いた作品です。

嵐電_0004

昭和一桁生まれの若い母親たちは、戦争で青春を奪われ、当時隆盛のチャンバラ映画のスターに思いを馳せることで、奪われた青春時代を取り戻していたのです。微笑ましくも悲しい話ですね。
一方で子供にとってはどこか、はた迷惑な話でもあり、「かしこうしてたらグリコの大きい箱買うてあげるよ」と餌で釣られて、母親の後をついて回るのです。

内職の合間に、よそ行きの洋服を縫い、撮影所に行ってはスターと目があったと喜ぶ母親。ロケ現場を駆け回る母親の後を、グリコのおまけの指輪をはめてついて歩く健気な子供。そして映画スターにうつつを抜かす妻に怒る夫・・・。

ただ、作者の時代を捉える目は、スターを追いかける母親だけにはとどまっていません。絵の片隅には、アコーディオンを奏でる傷痍軍人の姿が描かれていたり、家の中では戦争で亡くなった若い女学生の遺影が飾られていたりもするのです。

嵐電_0003

少し垣間見える戦争の面影が、遅い青春を享受している女性の幸せな姿を、強い哀愁をともなって読む者に感じさせます。




嵐電 RANDEN その3

2010年12月27日 22:47

「うわばみのおキヨ」(2005年『アナキズム』6号に初出)は、作風としては幻想奇譚のひとつです。

かつて京都の北白川にあった“北天堂”という風変わりな書店&カフェが舞台。ヒッピーやアングラやカゲキ派がたまるその店には、深夜になるとタイムトンネル経由の市電が停まり奇妙な客がやってくる・・・という設定です。

その北天堂は、東京文京区の白山にあった大正6年創業の“南天堂”がモデルとなっています。実際、ここには多くの文人や無政府主義者が集い、二階のカフェは南天堂時代という一時代を築いたサロンでもあったのです(ちなみに、モデルとなった南天堂は、今も南天堂書房として存在しますが、現在は普通の本屋だそうです)。

そして、作者を思わせる主人公の女の子がその店にいると、市電に乗って大正時代からやってきたのは・・・辻潤です(笑)。

嵐電_0002

主人公の女の子いわく「辻のおっちゃん」が京大西部講堂にアングラ劇を見るため去った後にやってきたのが、タイトルとなった「うわばみのおキヨ」こと、小島キヨ。辻潤の二番目の奥さんですね。風来坊の夫のせいで、キヨさんは「ごろにや」というおでん屋で働いていましたが、店に出ても呑んでばかりで皆からは「うわばみのおキヨ」と呼ばれていたのです。

時代も場所もチャンポンになった不思議なマンガですが、北天堂で“テッテ的”に呑み酩酊してしまった女の子はいつの間にかキヨさんの部屋に連れてこられ、家に帰るのが遅くなります。そしてタイムトリップしていた女の子が無事、家に帰ると母親にたいそう叱られ、犬小屋に監禁され、「頭のネジを巻き直しなさい!」と頭の血管を“ねじ式”にされてしまって・・・(笑)。

嵐電001

「リボンだと思えばかわいいかも」って、その発想、最高ですねっ! このように、つげテイストも満載の作品なのです。




旧 橋本遊郭 その4

2011年03月04日 00:45

二階の窓や欄干を集めてみました。欄間の華麗な細工にも注目です。


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一様に遊郭建築と言っても、窓枠の意匠や欄干の違いで、これほどまでに違った個性を見せてくれるのですから・・・たいしたものです。


20110201185239238[1]

普通の遊郭街なら「われが、われが」と奇抜な意匠や、ド派手なネオン風の建物がところどころにあっても不思議ではないのですが、どの家も純和風の歴史を感じさせる欄間飾りや彫刻の数々・・・素敵すぎますっ。


それにしても、いっさい手をつけられていない感のある旧遊郭街なのですが・・・、

20110201185312fe6[1]

やはりこの町にも、時の流れという名の空き地が、ちらほらと(泣)。


最後に・・・、

うらたじゅんさんのマンガ「発禁・櫻御前」の舞台はこの橋本で、どこかで見た情景がそこかしこに描かれています。

20110206192504875[1] 〈うらたじゅん「発禁・櫻御前」〉


また、島原の遊郭を舞台に多くの小説を書いた川野彰子の「狂い咲き」(『小説現代』1964年1月号)にも橋本の様子が少し触れられています。
家を出ても、行くあてはなかったが、財布の底をはたいて「橋本」までの切符を買った。旧京阪電車の橋本というところに、離れ島のような遊郭があると聞いていた。遊郭以外のところでは働く方法を知らなかった。
山と川にはさまれた細長い町で、川向こうの山崎町近在から渡し舟で通ってくる、土地の百姓相手の商売であった。(川野彰子「狂い咲き」より)


他にも、宮尾登美子原作の映画『鬼龍院花子の生涯』(監督・五社英雄、主演・夏目雅子、1982年)や、西村望原作の映画『薄化粧』(監督・五社英雄、主演・緒形拳、1985年)、さらには谷崎潤一郎の『蘆刈』(1932年)など、幾多の文学や映画のロケーションとしても登場しています。




河原町のジュリー その2

2011年03月08日 00:41

当時の京都で、「河原町のジュリー」が町のマスコットのように親しまれていたことは、彼がマンガの題材や音楽に歌われたことからもわかります。

彼が取り上げられた作品を紹介してみましょう。どれほど、この人物が、当時の京都にとって、なくてはならない人だったかがわかる・・・わけではありませんが・・・懐かしい時代が思い起こされます。


以前も紹介しました京都出身のマンガ家・グレゴリ青山さんの『ナマの京都』(2004年、メディアファクトリー刊)では、ゆるキャラの元祖「未来くん」とともに登場し、“京のまぼろしびと”として紹介されています。

20110307211526ca3[1] 〈グレゴリ青山『ナマの京都』より〉


また、こちらも以前に紹介しましたが、1980年代中頃に活躍した京都を代表するバンド“ローザ・ルクセンブルグ”が彼を歌った曲は「だけどジュリー」でしたね。以下に「河原町のジュリー」の風貌が思い出される歌詞の一部を再度紹介しておきましょう。
「あっちのベンチでごろり こっちのベンチでごろり うぉうお
 子供が石ころ投げる 野良犬吠える逃げる ジュリー
 だけどジュリー だいじょうぶ だからジュリー 笑ってね」  
「毎日街をふらり はだしのままでふらり うぉうお
 ぼーぼーヒゲは伸び放題 ラスタヘアーがよく似合う ジュリー」
「ヘビメタのやつより ジュリーの髪長い
 サーファーのやつより ジュリーの顔まっくろ」
「やっぱりベンチでごろり 楽しいユメ見てごろり うぉうお
 めさんこ寒い冬のころ 街から姿を消した ジュリー」


そして、いくつもの叙情的な“ガロ的”マンガを描いている、うらたじゅんさんも彼を題材に書いています。タイトルはそのものズバリ「河原町のジュリー」(2007年、北冬書房刊『幻燈7』所収)です。

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〈うらたじゅん「河原町のジュリー」より 北冬書房刊『幻燈7』所収〉

といっても、ジュリーが主人公の物語ではありません。どこか時代に馴染めず、生き方を模索しているような主人公の女の子が、鴨川の橋の下で分厚い本を読み、道ばたで“しけもく”を拾い、河原町通りで佇むジュリーを気にかけているというセンチメンタルな物語なのです。このマンガの中で彼は、窮屈になりつつあった時代の中でドロップアウトした側の生き方の象徴として重要な役割を担っています。



さて、さて、「河原町のジュリー」の風貌をマンガや音楽で紹介しましたが、彼に対してひとつ多大な誤解がありました。

それは、「河原町のジュリー」は、若くて身なりを綺麗にすれば、沢田研二ばりの今でいうイケメンだと思っていたことです。少なくとも30代、40代の若い浮浪者だとなぜかずっと勘違いしていました。

下にあるのは、彼の死を扱った1984年2月22日付の「過去語らず京の奇人逝く」と題された「京都新聞」夕刊の記事(コラム)です。

20110307211525bf9[1] 〈『京都新聞』1984年2月22日付夕刊〉

意外な情報が“わんさか”載っておりました・・・。

「河原町のジュリー」は1984年2月5日の朝、円山公園の倉庫の下で凍死します。66歳でした。そう、もうかなりのオッチャン、いえ、そこそこのオジイチャンだったのです。
記事には容姿についても詳しく載っています。
黒の背広のボロ着に破れたズボン、素足に長髪の姿は、確かにきれいではないが、猫背に腕を組み、スリ足でチョコチョコと歩く格好に、どこか愛きょうがあった。
どうやら、ねぐらは三条通りのアーケードの下だったらしく、寺町から四条、河原町、三条と一日かけて歩くことが日課だったようです。

DSC00937_R[1] 〈三条河原町〉

そして、遺体を引き取る親類がいたことも意外でした。ジュリーは戦争から復員し、二年間は結婚生活の経験もあり、四国の実家で親の商売を継いでいたようですが、亡くなる26年前にその四国の実家を飛び出し、それ以来、音信不通となっていたのだとか。


「河原町のジュリー」に関する噂話で、もう一つ当時の人々の口に上がっていたのは、「実は実家は大そうな金持ちで、世をはかなんで浮浪者に身をやつした」だの、「大金持ちが酔狂で浮浪者の格好をして人々の反応を楽しみ、夜は大豪邸に帰っていく」との、金持ち伝説がありました。
ただ、これらの噂はおそらく、当時、同じように河原町を闊歩したもう一人の“京都の奇人”堀宗凡が、料亭を営む裕福な家庭の出自であったことから、混同されていたのでは、とも推察できるのです。



奇人が町に出現するのか、町が奇人を生み出すのか・・・。どちらにせよ、今の京都には奇人を生み出す粋な余裕すらないように思えますネ・・・。





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