第二京都主義


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小説家 中谷孝雄 その2
2011/02/05 01:10

梶井基次郎はエンジニアを目指して、大阪の旧制北野中学校から京都の第三高等学校理科甲類に入学するものの、寄宿舎で同室となった中谷孝雄に影響を受け、文学青年になってしまいます。

外村繁(本名、外村茂)は高校に入った当初、彼ら二人の二年後輩だったのですが、中谷も梶井も二度ずつ落第し、結局、卒業は同じ年となりました。そして三人は揃って東京帝国大学へと進むのです(年齢は外村が他の二人より一つ年少です)。

三人は三高時代、文芸愛好家の集まりであった劇研究会に所属し、『真素木(ましろき)』という機関誌に小説を書いたりもしていました。この時に梶井が筆名として用いていたのが、ポール・セザンヌをもじった、「瀬山極」です。

欠席日数が多く、成績も良くなかった梶井は、卒業を絶望視されていましたが、「彼は卒業試験が済むと、病人を装って人力車で教授達を歴訪し、家庭の貧しいことや自身の病気のことなどをあることないことさまざまにこしらえて百方陳弁して教授達の同情を買い、やっとのことで及第点を取りつけることに成功したのだった。こういう時の彼は普段の外見の温厚さにも似ず、目的のためには手段を選ばないような厚かましさがあった。」(「青空」より)と中谷は振り返っています。


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〈京都大学吉田寮。かつての第三高等学校の寄宿舎です。現在も現役の建物として200名ちかい学生が生活しています。〉

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〈木造二階建ての三棟が連なっていて、和室が120部屋。建てられたのは1913(大正2)年。日本最古の学生寮です。〉

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〈寄宿料は月額400円。水道光熱費と自治会費が別途必要ですが、あわせても月2500円ほどで生活出来ます。ただし、入寮希望者も多く、選考に通らなければ入寮することは出来ません。〉

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〈これまでも幾度か、閉寮騒動や建て替えが取りざたされてきたものの、寮生の頑なな反対の前に、現在の建物が残ってきたのですが・・・、建物の老朽化は否めません。いつまでこの姿がみられることやら・・・。〉


東京帝国大学では、中谷は独文科、梶井は英文科、外村は経済学部へと進みますが、文学への傾倒はかわりません。
東京に出てきた彼らが、同人誌を立ち上げようとしていた時、ライバルとして意識したのは、第七次『新思潮』の存在でした。その中心人物として、同じ三高出身の大宅壮一や飯島正らがいたことに大きく刺激されたようです(ただし、第七次『新思潮』は長く続かず、三号で潰れてしまいます)。

中谷や梶井の同人誌は初め、名前を「鴉」に決めようとしていたらしく、それは京都時代に彼らがよく通ったカフェ「RAVEN」の名前にちなんででした。加えて、エドガー・アラン・ポーに同名の詩があったことも理由の一つだったとか。
ところが実際、中谷の部屋に同人が集まって決める段になると、なかなかまとまりません。部屋の中には煙草の煙が渦巻いていました。
そんな時、平林英子が部屋の空気を入れ換えようと、窓を開き、そのまましばらく空を眺めていたかと思うと、中谷を呼んで「青空という名前はどうですか、武者小路先生の詩に――騒ぐ者は騒げ、おれは青空、というのがありますが」と耳打ちします。中谷の眼に見えた10月の空は、美しく哀しいまでに晴れ上がっていたのです。

この、平林英子の意見が夫の中谷を通じて間接的に採用され、同人誌『青空』は誕生したのでした。



さて、平林英子と中谷孝雄の関係ですが・・・。

平林英子は、1902(明治35)年に長野で生まれました。
京都で事務の仕事をしていた時に学生だった中谷と知り合い、1921(大正10)年、当時高校二年生だった中谷と、春から夏まで同棲し、その二人の住処に梶井もたびたび訪れていたといいます。その後、一時、中谷と英子は不和となり、関係が途絶えます(この頃の心情が中谷の小説「二十歳」に記されているのです)。
英子は傷心の影響もあったのでしょう、武者小路実篤が主宰していた「新しき村」に入村することを決意します。ところが村へ赴く途中に京都に寄ったことから、二人の関係はあえなく復活し、翌年には英子は「新しき村」を離れます。
その後、地元長野で婦人記者をしていましたが、1924(大正13)年、中谷が大学入学で東京に腰を落ち着けたのを機に夏には上京し、結婚したのです(ただし当初は中谷の両親には、この結婚は隠されていました。それは、京都時代に中谷が事務員の英子と付き合っていたことがわかった際、家柄を重んじる中谷家では大騒動になった経緯があったのです。翌年には子供に恵まれますが、その時もまだ、事実上の結婚を家には打ち明けていませんでした)。

画像 〈平林英子〉


『青空』発足時の同人は、中谷孝雄、梶井基次郎、外村繁、小林馨、惣那吉之助、稲森宗太郎の六名。その中でも、経済的には外村に頼る部分が大きかったようです。外村の実家はそもそも近江の木綿問屋で、東京日本橋に店があり、近江の本宅とは別に、東京にも控家をもつ裕福な家庭だったのです。外村の家が『青空』の事務所も兼ねていました。

当初、1924年10月に出そうとしていた『青空』創刊号が刷り上がったのは12月20日過ぎ。結局、発刊は翌1925(大正14)年1月となります。創刊号には梶井の代表作「檸檬」が巻頭に掲載されましたが、雑誌自体がまったく反響を呼ばなかった上に、「檸檬」はといえば同人の間ですら評価はなされていなかったと、中谷は回想しています。

その後、順調に同人は増えていきます。三高時代の後輩だった淀野隆三が参加し、1926年には三好達治、飯島正、北川冬彦、阿部知二などが加わりました。

しかし、1927(昭和2)年になると金融恐慌がおこり、裕福な商家であった外村や淀野の家にも少なからずの影響を与え、経済的に頼みとすることも出来なくなって、6月の二十八号を持って、梶井基次郎の数々の名作を生み出した『青空』は二年半で廃刊となったのです。のちに文壇に登場する彼ら同人たちも、この時はまだ無名の文学青年のままでした。

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〈左から梶井基次郎、中谷孝雄、外村繁。三高時代の写真〉

「いすに座った私を中央に、向かって左に梶井、右に外村が立っていた。三尊仏ならば、さしずめ私が本尊、梶井と外村が脇侍というところであった。なぜそのようになったかというと、当時、三人で写真を撮ると真ん中の者が死ぬという迷信があり、思いなしか梶井も外村も躊躇の様子に見えたので、進んで私がそのいすに座ったのだった。」(「抱影」より)
外村が息絶えようとしていた頃、見舞いから帰った中谷が自著『梶井基次郎』の口絵に掲載された三高の卒業記念に撮った写真を眺め、当時を思い出している場面です。


カテゴリ:中谷孝雄

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