2021年02月15日 20:30
大映通り商店街

京都市右京区の太秦は、かつて葛野郡太秦村と呼ばれる竹藪ばかりの土地でした。映画発祥の地と呼ばれるようになる発端は、映画初期の大スター・阪東妻三郎が竹藪の地を切り開き、1926(大正15)年に「阪東妻三郎プロダクション太秦撮影所」を開設したことに始まります。
その後、松竹太秦撮影所、帝キネ太秦撮影所、新興キネマ太秦撮影所、大映京都第二撮影所、東横映画撮影所など多くの撮影所が建ち、映画の街として活況を呈します。
そして映画産業が斜陽となった今も、「松竹京都撮影所」や「東映京都撮影所」、テーマパーク「東映太秦映画村」が存在し、日本のハリウッドとしての歴史を伝えています。
その太秦の地にあって、京福電気鉄道嵐山本線(通称・嵐電)の太秦広隆寺駅から帷子ノ辻駅にいたる一駅区間の約700mを、路線と併行して進んでいるのが「大映通り商店街」です。

「大映通り商店街」はすぐ近くにあった大映京都撮影所に由来する商店街ですが、発祥は戦後に並んだ夜市からでした。
広隆寺から帷子ノ辻にいたる三条通のバイパスだった道に、毎月三回夜店が出店し、“夜店通り”という名がつき、人出も多くなりました。そして次第に市場やスーパーも道沿いに出店し、商店街としての街並みがつくられていったのです。
現在では商店街の人通りも少し寂しくなりましたが、映画の街ならではの名所や面影が今も残されています。

商店街の路面の両端は赤茶色に彩られていますが、道の舗装は映画のフィルムを模しています。

カメラをかたどった街頭もあり、素朴で地域に根ざした商店街の街並みが続きます。

商店街沿いの「三吉稲荷」という小さなお稲荷さんには、日本映画の父・牧野省三を顕彰する石碑が建っています。石碑の裏には牧野省三の孫である長門裕之、津川雅彦兄弟の名前が。そして神社の敷地を囲む玉垣には「入江たか子」「伴淳三郎」など、有名俳優の名前も。

かつて竹藪ばかりだった太秦に、人々に忘れ去られ朽ち果てていた中里八幡、三吉稲荷という二つの祠がありました。
1928(昭和3)年に太秦日活撮影所(のちの大映京都撮影所)が建てられ、祠のあるまわりの竹藪も切り開かれていくなかで、祠をねぐらにしていたキツネやタヌキなどが行き場を失いました。その姿を哀れんだ日活の関係者が中心となって1930(昭和5)年に朽ち果てていた二つの祠を新たに建てたのが現在の三吉稲荷です。
その後も周辺には次々に撮影所が建てられたことから、この神社の通称が「映画神社」となり、今も関係者が映画映像傑作祈願に訪れます。
『ガメラ』シリーズと並んで大映を代表する特撮映画のヒーロー『大魔神』の像。

1966(昭和41)年に制作された『大魔神』は子どもに人気を博しましたが、約5mに及ぶこの像はのちになって映画のイベント用につくられたもの。その後、倉庫に眠っていた像が商店街のシンボルになるべく、2013(平成15)年にスーパーの前に復活し、買い物客を見守っています。
大映京都撮影所の跡地には大きなマンション。

1927(昭和2)年に日本活動写真が「日活太秦撮影所」として開所し、1942(昭和17)年の戦時統合で大日本映画製作株式会社(のちの大映)に。
1971(昭和46)年の倒産後は、徳間書店の傘下となり、分社化により株式会社大映映画京都撮影所となりましたが、1986(昭和61)年には完全に撮影所も閉鎖されました。
太秦中学校にあるオスカー像と金獅子像のレプリカ。

大映京都撮影所制作の『羅生門』(黒澤明監督、1950年)が第12回ヴェネツィア国際映画祭のグランプリ(金獅子賞)と、第24回アカデミー賞で名誉賞を受賞。この受賞を記念して金獅子像とオスカー像をモチーフにした記念碑を撮影所に建立し、その周辺は「グランプリ広場」として親しまれていました。しかし撮影所も閉鎖されて広場も消滅。
有志や地元住民がかつての栄光を偲び、2002(平成14)年、大映京都撮影所跡地でもある京都市立太秦中学校に「グランプリ広場」を復元し、金獅子像とオスカー像のレプリカが今も飾られています。

大映通り商店街にとって今年は記念の年。1966(昭和41)年4月に有志により「大映通りショップ繁栄会」として設立され、1971(昭和46)年8月に「大映通り商店街」に改組して50年の節目となりました。

京都市右京区の太秦は、かつて葛野郡太秦村と呼ばれる竹藪ばかりの土地でした。映画発祥の地と呼ばれるようになる発端は、映画初期の大スター・阪東妻三郎が竹藪の地を切り開き、1926(大正15)年に「阪東妻三郎プロダクション太秦撮影所」を開設したことに始まります。
その後、松竹太秦撮影所、帝キネ太秦撮影所、新興キネマ太秦撮影所、大映京都第二撮影所、東横映画撮影所など多くの撮影所が建ち、映画の街として活況を呈します。
そして映画産業が斜陽となった今も、「松竹京都撮影所」や「東映京都撮影所」、テーマパーク「東映太秦映画村」が存在し、日本のハリウッドとしての歴史を伝えています。
その太秦の地にあって、京福電気鉄道嵐山本線(通称・嵐電)の太秦広隆寺駅から帷子ノ辻駅にいたる一駅区間の約700mを、路線と併行して進んでいるのが「大映通り商店街」です。

「大映通り商店街」はすぐ近くにあった大映京都撮影所に由来する商店街ですが、発祥は戦後に並んだ夜市からでした。
広隆寺から帷子ノ辻にいたる三条通のバイパスだった道に、毎月三回夜店が出店し、“夜店通り”という名がつき、人出も多くなりました。そして次第に市場やスーパーも道沿いに出店し、商店街としての街並みがつくられていったのです。
現在では商店街の人通りも少し寂しくなりましたが、映画の街ならではの名所や面影が今も残されています。

商店街の路面の両端は赤茶色に彩られていますが、道の舗装は映画のフィルムを模しています。

カメラをかたどった街頭もあり、素朴で地域に根ざした商店街の街並みが続きます。

商店街沿いの「三吉稲荷」という小さなお稲荷さんには、日本映画の父・牧野省三を顕彰する石碑が建っています。石碑の裏には牧野省三の孫である長門裕之、津川雅彦兄弟の名前が。そして神社の敷地を囲む玉垣には「入江たか子」「伴淳三郎」など、有名俳優の名前も。

かつて竹藪ばかりだった太秦に、人々に忘れ去られ朽ち果てていた中里八幡、三吉稲荷という二つの祠がありました。
1928(昭和3)年に太秦日活撮影所(のちの大映京都撮影所)が建てられ、祠のあるまわりの竹藪も切り開かれていくなかで、祠をねぐらにしていたキツネやタヌキなどが行き場を失いました。その姿を哀れんだ日活の関係者が中心となって1930(昭和5)年に朽ち果てていた二つの祠を新たに建てたのが現在の三吉稲荷です。
その後も周辺には次々に撮影所が建てられたことから、この神社の通称が「映画神社」となり、今も関係者が映画映像傑作祈願に訪れます。
『ガメラ』シリーズと並んで大映を代表する特撮映画のヒーロー『大魔神』の像。

1966(昭和41)年に制作された『大魔神』は子どもに人気を博しましたが、約5mに及ぶこの像はのちになって映画のイベント用につくられたもの。その後、倉庫に眠っていた像が商店街のシンボルになるべく、2013(平成15)年にスーパーの前に復活し、買い物客を見守っています。
大映京都撮影所の跡地には大きなマンション。

1927(昭和2)年に日本活動写真が「日活太秦撮影所」として開所し、1942(昭和17)年の戦時統合で大日本映画製作株式会社(のちの大映)に。
1971(昭和46)年の倒産後は、徳間書店の傘下となり、分社化により株式会社大映映画京都撮影所となりましたが、1986(昭和61)年には完全に撮影所も閉鎖されました。
太秦中学校にあるオスカー像と金獅子像のレプリカ。

大映京都撮影所制作の『羅生門』(黒澤明監督、1950年)が第12回ヴェネツィア国際映画祭のグランプリ(金獅子賞)と、第24回アカデミー賞で名誉賞を受賞。この受賞を記念して金獅子像とオスカー像をモチーフにした記念碑を撮影所に建立し、その周辺は「グランプリ広場」として親しまれていました。しかし撮影所も閉鎖されて広場も消滅。
有志や地元住民がかつての栄光を偲び、2002(平成14)年、大映京都撮影所跡地でもある京都市立太秦中学校に「グランプリ広場」を復元し、金獅子像とオスカー像のレプリカが今も飾られています。

大映通り商店街にとって今年は記念の年。1966(昭和41)年4月に有志により「大映通りショップ繁栄会」として設立され、1971(昭和46)年8月に「大映通り商店街」に改組して50年の節目となりました。
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